B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。

2015/09/12

秋の準備が入院の準備に

息子と娘が東京に帰ってしまい、もらっていたパワーが無くなると、急に自分の体調の悪さが気になった。そして入院。
息子を札幌に呼んだのは、家の前の木を切ってほしいということもあった。

■この木を切るのは2度め、
成長が早いのは、せっかちな私にむいていたが、
どこまで大きくなるのか不安になった。
落ち葉の量もハンパない。隣にも落ちるので家内も申しわけなさそう。

■隣人は、私のことを「みどりが好きな人でよかった。」と、言ってくれたが、大きな木は玄関を暗くしてした。明るくなってうれしそうだった。
木は根元だけのこして切ってしまった。紅葉を期待して植えたのに日当りの悪い場所だったので思い描いた最高の姿を見ることはなかった。



■病院の窓から夕焼け 9月初旬

2015/08/30

「スター・ウォーズ」展 札幌芸術の森美術館で

■札幌芸術の森美術館の「スター・ウォーズ」展。終了間近になって見に行く。
しかし何年か前、北海道近代美術館で開かれた「スター・ウォーズ」展(内容は今回とほぼ同じ)の時ほど気合が入らい。いくら好きでも、似たような展覧会が何度も開かれるとゴッホ展がやってきたような気分になってしまう。
もう一つ、この映画内容を展示するには札幌芸術の森美術館は狭すぎる。少なくても5倍の広さがほしい。NYの「ナチュラルヒストリー・ミュージアム」ぐらいあっても良い。

■1977年に公開された映画「スター・ウォーズ」。映画界はアメリカン・ニューシネマとヨーロッパ映画の時代でハリウッドは低迷期。SF映画というので「2001年宇宙の旅」の仲間かと期待して銀座まで出かけたが、宇宙船の中をドタドタ走り回る映画だったのにがっかりした。
ただし冒頭の巨大宇宙戦艦スター・デストロイヤーと、デス・スターの溝に入り込む戦闘機をシュノーケルカメラで追いかけた特撮映像には度肝を抜かれた。

■「スター・ウォーズ」は、衣装や背景など、細部にこだわった優れたデザインをもち、宇宙船や武器には未来的であっても古さを残して観客の郷愁をさそうというアートディレクションがなされている。
しかもシリーズを通じて異種族の共存という素晴しい世界観がある。大学でも毎年講義してきた。

ヒーロー物なので、たしかに子供っぽいところもある。しかし親子の年代記になっている点、異種族共存がベースになっている点などは、「スター・ウォーズ」の出発点でもある。ディズニー映画になっても変わらないで欲しい。

■今回の収穫は、会場で流れていたジョン・ウイリアムスの曲。
「スター・ウォーズⅣ」で、ルークが月を見ながら自分の運命をみつめるシーンでかかる曲。
一番好きな曲だが、このところTVの音でしか聞いていなかったせいか、音響の差は歴然。涙をこらえるのがやっとなくらい感動した。


2015/08/28

セグウェイ

■2年ぶりに家族がそろう。羊蹄山を見にニセコに行こうということに。

■ニセコの「セゾン・クラブ」では馬にも乗れるし、そして何とセグウェイがあるというのだ。新しがり屋なのでぜひ乗ってみたかった(といっても発明されたのは随分前)。

■思っていたより大きい。なんとセグウェイにはオフロード仕様もあったのだ。

あいにく天気は小雨がパラパラ。「本日はぬかるんでいるので乗れません。」というところを無理やり頼み込んで乗ってしまった。

■インストラクターに基本を教えてもらい林道へ。つま先と踵に力をいれて前進、後進。坂道になるとちょっとだけ難しい。でも楽しい!

■家に帰りTVで”世界陸上”をみたら、同じセグウェイに乗ったカメラマンがボルトにぶつかった、との報道。

今回の写真もセグウェイに乗ったインストラクターが撮ってくれたもの。
我々は何事も無くてよかった~。

■レストランの前。到着時と出発時にヘビをみた。離れた場所だったから2匹いたことになる。夏ももう終わり。


2015/08/24

母の残した私の育児日記

■昨年亡くなった母が書いていた育児日記が、実家から送られてきた。兄弟4人分、私の部分はPDFで23ページあった。私を出産する前日から、生まれて1年あまりの間に感じたことが綴られている。

母がなぜ日記を書こうとしたか? それは自身の喜びであったり、嫁いだ望月家の環境のせいかもしれないが、物書きが得意でもない母があえて書いたものだ。何かはっきりとした理由があったことは確か。

この日記の存在は妹だけが知っていた。「生前に母から読ませてもらったので、私もマネて育児日記を書いた。」と話してくれた。女性が母になる時は、娘を産んでおくことが幸せの1つだ、と思った。

きっと日記を息子たちに見せるつもりはなかっただろう・・。そんな風に思えた。だから遺品として読めたのはよかったかも知れない。

■それにしても60代半ばを過ぎて、病で人生の出口まで行ってきて、初めて自分の人生の入口を知るというのは不思議な体験だった。
現在の私は、母の育児日記に登場する赤子とシンクロするところがある。

気づいたのは、身につけた知識や技術を整理し、必要のなくなった体験や記録を処分し、体のことだけを考えて暮らしていると、67年前、自分は、寝たり起きたり、泣いたり笑ったりするだけの、人というDNAをもった生物にすぎなかったのだ、ということ・・。

もう一つ、日記を読んで驚いたのは、60代になってしまった私が、自分の娘のような年の母の感情を知ってしまったこと。写真では味わえない、なんとも言えない気分になった。

■同時に送られてきたのが小学校から高校までの成績表。これには興味がなかったが、母の想い(願い?)を感じたので今は神棚に。

日記も成績表もまもなく処分する予定。私の”バック・トゥ・ザ・フューチャー第1話”は終わった。



2015/08/21

手作り燻製をいただく

去年、小春堂で知り合った太田さん。北海道への移住、家庭菜園、燻製作りの話で盛り上がった。
その彼が、先日自分の釣ったニジマスの燻製を持ってきてくれた。サイズは30cmたらず。真空パックされていた。

■燻製話が再燃する。
糠平湖に流れこむ川で釣れるらしい。多い時は40匹というので驚き。しかし釣り人やキノコ採りにとってターゲットに出会える場所やタイミングは秘密。詳細は話せないのでここまで(笑)。

■太田さんはエサ釣りだがフライやルアーにも興味があるというので、処分中の本の中から釣りに関する書籍だけもらっていただいた。新宿の紀伊國屋の裏にある(あった?)”FISHING TACKLE PRO SHOP サンスイ”の釣具カタログなどレアな本。

■燻製用品も持って行ってもらった(また燻製をやりたいと思う気持ちが無いわけじゃないけど・・)。
ガレージには何年も使っていない燻煙材、サクラとヒッコリー(クルミ)が大量にあった。燻製用温度計も。
太田さんのやり方は60度ぐらいの温燻という。燻製窯にへばりついて温度調節をするマメ人間じゃないとこうはいかない。温度はすぐに上がってしまう。私のような横着者は燻製窯を60度に保つことは出来なかった。

■できたての燻製は美味い! 元の魚の味に燻煙の香りがさらっとのっかり、熟成した味とは違った風味がある。


2015/08/19

室伏鴻のご冥福をお祈りいたします

昨日、舞踏家の室伏さんが6月にメキシコで亡くなっていたと知って愕然。
もう30年以上も会っていなかったが、一緒に仕事をし、私の感性に大きな影響を与えてくれた同世代人の1人である。画像は室伏さんの主催する”舞踏派背火”旗揚げ公演の際、担当したポスター(A1)。私が20代半ばのころ。

■踊りは山海塾の天児牛大、白虎社の大須賀 勇と同じく独特の型を持っていた。
"大駱駝鑑"創立時の主力メンバーでありながら、他のダンサーのように日本で知られていなかったのは海外での暮らしと活動が中心だったためと思っている。

■ダンスは土方巽直系の素晴しいものだった。ミイラの踊りを追求していたように思う。しかしそれにもまして優れた彼の才能は、近代の民俗学研究者や文学者に対する知見だった。そしてこのインテリジェンスと共に他のダンサーが及ばなかったのがプロデュース力である。彼は、"大駱駝鑑"の渉外役として力を振い、戦国時代でいえば軍師の役割をしていた。渉外の対象は芸術家だけではなかった。

シルクロードを目指す舞踏団を夢み、"アリアドーネの會"の設立に奮闘、"舞踏派背火"を旗揚げした。芸術家たちが地方に拠点を持つためのさきがけとなった。ヨーロッパでは暗黒舞踏の発表の場をつくった。彼がいなかったら暗黒舞踏が日本で一時代を築き、ヨーロッパにまで広がることはなかったと思う。

■学生時代からの付き合いだった。私の杉並時代の住まいは、もともと彼の住んでいた借家を引き継いだもの。
室伏さんとはずっとお会いできなかったが様子はたまに知人から聞いていた。
ご冥福をお祈りいたします。

*関連する記事:
山海塾 天児牛大さんの受章
矢野さんの思い出
ビーフシチューには杉並の思い出がある

2015/08/17

萩 4年目で花が咲く

■萩がやっと咲いた。といっても放っておいただけ(笑)。根っこは4年前にご近所からいただいたもの。何箇所かに分けて植えたが、根付いたのはこれだけだった。

萩は、木とも草とも言えないし、野生とも観賞用ともいえない曖昧さをもちながら、やがて枝が増えて垣根のようになる。そして高さが人の肩くらいになると、シダレて小さな可愛らしい花をつける。私の散歩にとって萩は季節の風物なのだ。

■萩を植えたのは、家の前を通る人にもそんな気分を味わってもらえたら思ったから。
庭にはすでにモミジがあるのでボタンを植えれば花札の役「猪鹿蝶」がそろうが、そんな趣味はない。

*豊平川の土手にある萩。
「犬の散歩コース・秋の訪れ」より 2013年

2015/08/16

スズメバチの襲来

■何年か前から玄関のドアの前はツタに覆われるようになっていた。ツタは実をつけ、やがてその実は黒くなる。

しかし今年はこれまで一度もなかったことが起きた。このツタにスズメバチの大群がやってきたのだ。20匹ぐらい。なぜだ~? 
(*怖くて写真を撮れなかった。)

■実はこれまで気付かなかったが、ツタというのは緑色の花を咲かせるのだ。ハチはこの花の蜜を吸いに来たらしい。
しかしなんでまた突然? 
とか探求している余裕などなかった。玄関の前なのだ。

■こうしてスズメバチ駆除大作戦を開始。
殺虫剤探しにホーマックへ。
次に茂りすぎたツタをむしり取る。
すると私のところにスズメバチが襲ってくる。「赤い服はハチが好む色。」と家内にいわれて白に着替える。

翌日、蜂の巣を探したが家の周りには無かった。
朝(なぜかスズメバチは朝寝坊のよう)、ハチの来る前に残ったツタに除虫剤をスプレーする。
夕方(なぜかスズメバチがやってくる時間)、ハチは来たがすぐに去り、やがて来なくなった。

■考えてみれば丁度お盆だ。英語ではBuddha's Festival(英会話学習カセットより)と呼び、仏様の祭りだ。この時やってくる虫は、「ご先祖様の化身なのだから大切にしなくてはいけない。」といわれている。するとスズメバチはご先祖様だったのか。
しかし仏教徒でもない私のところに、20体ものご先祖様が訪れるなんてことがあるのだろうか?

2015/08/08

牛すじカレー

これまでピクルス作りを試してみたので、そろそろカレーを作ってみようと思っていたら、家内から牛すじのカレーを食べたいとの要望があった。
家ではよく話題になるカレーだが、10年以上前、家内の出張中に私が子供たちにつくったカレーだ。家内は、自分だけが牛すじカレーを食べたことがないので期待しているようなのである。

実はこのカレー、子供たちには酷評だった。カレーといえば子供の大好物のはずが、この牛すじカレーだけは気に入らなかったようだ。
いつも家で話題にのぼる時は「父のつくった最もひどい料理」としてだった。

このカレー、私自身はそれほどひどい味とは思っていない。子供の味覚はせまかったり、意外に保守的なこともある。しかし酷評されるとそんな主張もめげてしまう。おかげでその後二度と作っていなかった。

そんなことを頭の片隅に牛すじカレーを作ってみた。
作り方は普通のカレーと同じ、香辛料を炒めて、あらかじめ煮込んで柔らかくなった牛すじ肉のスープの中に入れる。今回ジャガイモとニンジンをすりおろし、ミックスナッツを砕いたものを追加してルウのトロミをつけた。

牛すじ肉のトロッとした歯ざわりが好みかどうかが分かれ目になる。家内には美味いと言ってもらえたが、一度酷評された料理はなんとなく自信が持てなかった。作品作りも同じようなものかもしれない・・。

思うようなカレーとピクルス、まだまだ。