■札幌芸術の森美術館の「スター・ウォーズ」展。終了間近になって見に行く。
しかし何年か前、北海道近代美術館で開かれた「スター・ウォーズ」展(内容は今回とほぼ同じ)の時ほど気合が入らい。いくら好きでも、似たような展覧会が何度も開かれるとゴッホ展がやってきたような気分になってしまう。
もう一つ、この映画内容を展示するには札幌芸術の森美術館は狭すぎる。少なくても5倍の広さがほしい。NYの「ナチュラルヒストリー・ミュージアム」ぐらいあっても良い。
■1977年に公開された映画「スター・ウォーズ」。映画界はアメリカン・ニューシネマとヨーロッパ映画の時代でハリウッドは低迷期。SF映画というので「2001年宇宙の旅」の仲間かと期待して銀座まで出かけたが、宇宙船の中をドタドタ走り回る映画だったのにがっかりした。
ただし冒頭の巨大宇宙戦艦スター・デストロイヤーと、デス・スターの溝に入り込む戦闘機をシュノーケルカメラで追いかけた特撮映像には度肝を抜かれた。
■「スター・ウォーズ」は、衣装や背景など、細部にこだわった優れたデザインをもち、宇宙船や武器には未来的であっても古さを残して観客の郷愁をさそうというアートディレクションがなされている。
しかもシリーズを通じて異種族の共存という素晴しい世界観がある。大学でも毎年講義してきた。
ヒーロー物なので、たしかに子供っぽいところもある。しかし親子の年代記になっている点、異種族共存がベースになっている点などは、「スター・ウォーズ」の出発点でもある。ディズニー映画になっても変わらないで欲しい。
■今回の収穫は、会場で流れていたジョン・ウイリアムスの曲。
「スター・ウォーズⅣ」で、ルークが月を見ながら自分の運命をみつめるシーンでかかる曲。
一番好きな曲だが、このところTVの音でしか聞いていなかったせいか、音響の差は歴然。涙をこらえるのがやっとなくらい感動した。
B-STYLE
[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する] [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。
2015/08/30
2015/02/07
映画「猿の惑星 ライジング」 SFというよりも・・
「猿の惑星 ライジング」をみる。「ゴジラ」のあとで。
モニタのとなりには我が家の犬が。愛犬モコ、最近具合が悪い。病院通いがつづく。
それはさておき・・。
■SFというよりも・・
この映画に出てくるエイプは猿じゃない。人間だ。だから人間と人間の人種間、部族間の戦いをみせられているように感じてしまう。しかも文明人目線である。
・白人とインデアン
・文明人とネイティブ
・白人と日本人
この映画を100年後にみたことを想像してほしい。きっと違和感を感じると思う。また感じるように世界は変わっていて欲しい。
■人種間戦争の映画として
物語、脚本は、すごく良く出来ている。信頼の喪失と回復、そしてまた喪失。争いの虚しさが伝わってくる。役者も素晴しい。この映画は非常にリアルな人種間戦争の映画なのだ。
しかし、この「猿の惑星」の新しいシリーズはどこに向かうのか? 最初のシリーズの第1話を証明して終わってしまうのか?
第1話が誕生したのは、その時代の世界観があったからだ。リメイクの難しさを感じた。
■SF映画とは
猿が猿であるがゆえに成立するのがSFなら、私が見たい新しい「猿の惑星」シリーズは、猿の次に犬、その後に鳥、そして昆虫、のように次々と生物が変化して、人間はどこから来たのか? を問うようなものだ。その場合、題名は「SF〇〇の惑星」となる。
ちょっと脱線してしまったが、「猿の惑星 ライジング」には、「アバター」のようなロマン主義はない。人類が持っていない信仰や神秘のようなものがないからだ。
たしかにリーダーは”シーザー”という名であり、”キリスト”ではない。では今後の続編には人間の神とは違う猿の神が登場する場面はあるのか?
「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」のような。
■どこまでゆくのか?この映像技術の進歩
とにかく素晴しかったのが猿の動き。すべてパーフォーマンス・キャプチャからCGを起こしている。さらに合成やカメラワークもすごい進歩だ。もしこの技術の進歩が止まらないのなら、近い将来、人類は虚構に囲まれた驚くべき生活を送る事ができるようになっているはずだ。それがいいかどうかは別として。
1つ気になったのは、なぜ文明人の相手は醜いのか?ということ。
またなぜそう感じてしまうのか?ということ。
数年で進歩してしまうことと、何百年、何千年も変わらないことのギャップに気づく。
GODZILLA ゴジラ(2014年版) 日本映画とハリウッド映画
ツタヤでBDを借りてみる。このゴジラ、よく出来ていた。
■映画の手法
ドキュメントの中に役者が出てくるようなリアルなストーリーの描き方に好感が持てた。
■ハリウッド版ゴジラとは
ハリウッド映画を見ていると、西欧社会では必ず論理性が求められ、自然イコール神のような視点が持てないようだ。だからゴジラには生物学的根拠まである。この惑星の初元的な生命体であるゴジラが地球にバランスをもたらすという仮説になっている。
そして人類の築いた悪しき文明の産物、核は、やはりゴジラと同時代の怪獣ムートーの食料として扱われる。この怪獣がもたらす生態系のアンバランスに対して調和をもたらすのがゴジラという生物なのだ。
■ゴジラの登場とバトルシーン
怪獣ゴジラは、よく出来ていた。映画館で見たらさらにスゴかっただろう。エンターテイメントは見世物なのだから、かくあるべしである。
もともとゴジラの恐ろしさはキングコングの真似だ。それを真似なおしているのだから楽しめた。
怪獣ムートーとの戦いは、よくSF映画にあるパターンで新鮮味はないが迫力はあった。しかし人間型ではないので、誰か、戦いをフォロー、解説するキャラクターを登場させても良かったのではないだろうか?
戦いは長いし、攻撃力やダメージなどがかわかりにくかった。
■日本映画とハリウッド映画
初めに映画手法のことを書いたが、日本映画との大きな違いは、自然神や物神のような視点がないこと、ハリウッドに「大魔神」を作ってもらったらどうなるのか? ちょっと興味がある。
もう1つの違いは、一般市民の怪獣に対する視点が描かれていないこと。巨大イグアナが都市で暴れまくった、という風にならないように科学者達を登場させているが、彼らだけでは・・。
さらに1つ。日本のゴジラでは、名所がひとつひとつ破壊されるシーンが定番だが、それもわからなかった。エンターテイメントなのだから・・。
■次作にも期待
戦いが終わり、ゴジラは海に戻った。
最後に司令官は何を思ったのか、など突っ込みどころは多いが、前回のハリウッド版ゴジラがあまりにもひどかったので、期待しないでみた分、満足した。
ハリウッドにヒロシマやビキニに対する日本人の感情を描いて欲しいなど押しつけはしない。また家族の物語でもかまわない。次作も楽しみにしている。大エンターテイメントとして。
*私の感想はゴジラについてだけです。日本映画はハリウッド映画と比べると大きな欠点があると思っています。それは技術やスケールとは違うものです。いずれ機会がありましたら記述します。
2015/01/04
ザ・ホスト 美しき侵略者
■物語:
宇宙の彼方よりやってきたエイリアン、人類より理性的な知的生命体「ソウル」に征服された地球。地球は穏やかな星になっていた。
「ソウル」は人の体に入り込み肉体を支配する知性。しかし支配された主人公の女性には地球人の魂が消されずに残っていた。
彼女は2つの魂を持ちながら、抵抗する人類を探すために都市から辺境の地へ。支配を免れた人々は岩山に築かれた住居で反撃の機会をうかがっていた。
そこで彼女はかつての恋人と弟に出会う。そこには「ソウル」であるがゆえの待遇がまっていた。しかし時がたつにつれ、肉体の中にある2つのそれぞれの魂にたいして愛を感じる2人の男、信頼してくれる人間ができてゆく。彼女は二重人格者のように過ごす。
やがて彼女は、瀕死の弟を救い人間と「ソウル」との関係を変えようとする行動に出る。
■レトロフューチャー:
アンドリュー・ニコル監督得意のレトロフューチャーデザイン感覚は健在で随所に見られる。「ソウル」の美しさ、その仕事ぶりと空間、乗物などである。またその撮影も見事。
これまでなかった設定としては抵抗軍の住居がある。トルコのカッパドキアを広くしたような岩山の中。空間が清潔なところがいい。中を流れる川、土蛍。どこかで見たような二番煎じの設定であっても嫌な気にはさせない。
■不満:
もしこの映画に不満があるとしたら主人公の二重人格のようなセリフである。原作があるとはいえ、違う表現方法があるのではないだろうか。
■知的生命体と人間:
これまで映画に出てくるエイリアンは、何らかの物理的な力で地球を支配するタイプが多かった。それはもちろん映画のエンタテインメントという特質によるものだ。しかしここに登場する「ソウル」」はちがう。人間より優れた知性を持っているし、あえて武力は使わないようにみえる。
またこれまでアンドリュー・ニコル映画のテーマであり魅力となっているのは、未来社会における人間の野性味である。しかしこの映画では、野性味が個人ではなく集団になると野蛮で愚かな側面もあると言っているようにも見える。
21世紀は、AIをふくめ、優れた知性をもった相手と人類がどう付き合っていくかというSF映画が増えるのかもしれない。同じ時期に「her」を見たせいかそんなことを想った。
2014/12/10
映画「トランセンデンス」 はネモ船長のAI版?
「トランセンデンス」ウォーリー・フィスター監督。
久しぶりに行ったツタヤで、なぜかアンドリュー・ニコル監督の映画と勘違いしてして借りて見てしまった。テーマが近かったせいか? いい映画に飢えていたのか? 早とちりだった。最後まで気付かなかった。
確かにアンドリュー・ニコルはもっとスタイリッシュだ。以下、そんなふうなことも頭に入れて読んで欲しい。
SFとしての構成:
技術は進化し、最高の知能を備えたAIが完成していた。しかし普及にあたっては影響が大きすぎるため、社会にとってどんな知能が必要かが問題となっていた。
一方霊長類のもつ知能をコンピュータに読み込む実験は成功していた。ただしこちらも未来を任せられるような知能ではなかった。
科学者である主人公は自分の知能をコンピュータにアップロードする。
AIとなった主人公はネットワークを支配し、人類を救済しようとするが、途中で自らをウイルスにより破壊し、世界のすべての情報技術は失われる。
ただし地球は、彼がAIになって発明したナノテクノロジによって再生される。
ラブストーリーなので詳細をを知りたい方は別のサイトで。
この映画、見ていて制作費の使い方(豪華すぎる配役、粗末な田舎町のセット、国家の中枢シーンがない)には首をかしげたが、いい映画だ。
特に科学技術と人類というテーマは好みだ。アンドリュー・ニコル監督の「ガタカ」、「タイム」とかぶるところがある。映像もきれいだ。正座するような気持ちで見てしまった。
しかし見終わったときの複雑な思いはなんだろう。素晴しいテーマとストーリー、充実した配役、映像に対するこだわり。すべてお気に入りなのに何かものたりない・・。
満足すべき料理なのに素直によろこべない。ような・・。
やがてその答えとして思いついたのがコレ。
表現の味わい方にはいろんなものがある。
ありきたりのテーマがありきたりに描かれた時の小気味よさ。
下品な役者の下品という品。
決まりきったユーモアの持つ安心感。
「トランセンデンス」のような立派な作品は好きだ。しかし先にあげたようなカジュアルさはあまりない。映画は立派であればいいというものではない・・。
鑑賞者はいろんな表現を好む。これは立派な表現を知らない事とはちがう。
特上のコース料理は好きだ、しかし食べなれたレトルト食品もわるくない、である。
ただこれら好きな料理を混ぜれば最高の味になるわけではない。だからこうして欲しい、ああして欲しいとはいわない。その結果、この映画はウォーリー・フィスター流の凝った映画なんだ、という納得の仕方になってしまうのかもしれない。
「トランセンデンス」は、難解でも曖昧でもない。しかしふだん見慣れたSF映画とは一味ちがう上品でちょっとだけ重い味わいの作品だ。
もう一つの答えとして思いついたのは、論理的な科学技術者を主人公にして人類の救済やAIを描くとこんな風になるということ。
「コンピュータに自分の自我を証明することができるか?」
「人間は愛しながら逆の行動を取ることもある。」
映画の中で語られるセリフである。
「トランセンデンス」は、科学技術文明のユートピアを描いたいい映画であることはたしかだが、
アンドリュー・ニコル監督がそれに翻弄される人間を主人公にしたのに対し、
ウォーリー・フィスター監督は、さらに科学技術をつかって人類や地球を救済しようとする神のような人間を主人公にしてしまった。「海底二万里」のネモ船長を思い出す。
ジュール・ヴェルヌのSF小説から冒険話をとって恋愛話をプラスするとこんな感じなのかもしれない。
*写真は映画.com http://eiga.com/movie/79708/より。
*アンドリュー・ニコル作品に関する記事
「ガタカ」
「タイム」
確かにアンドリュー・ニコルはもっとスタイリッシュだ。以下、そんなふうなことも頭に入れて読んで欲しい。
SFとしての構成:
技術は進化し、最高の知能を備えたAIが完成していた。しかし普及にあたっては影響が大きすぎるため、社会にとってどんな知能が必要かが問題となっていた。
一方霊長類のもつ知能をコンピュータに読み込む実験は成功していた。ただしこちらも未来を任せられるような知能ではなかった。
科学者である主人公は自分の知能をコンピュータにアップロードする。
AIとなった主人公はネットワークを支配し、人類を救済しようとするが、途中で自らをウイルスにより破壊し、世界のすべての情報技術は失われる。
ただし地球は、彼がAIになって発明したナノテクノロジによって再生される。
ラブストーリーなので詳細をを知りたい方は別のサイトで。
この映画、見ていて制作費の使い方(豪華すぎる配役、粗末な田舎町のセット、国家の中枢シーンがない)には首をかしげたが、いい映画だ。
特に科学技術と人類というテーマは好みだ。アンドリュー・ニコル監督の「ガタカ」、「タイム」とかぶるところがある。映像もきれいだ。正座するような気持ちで見てしまった。
しかし見終わったときの複雑な思いはなんだろう。素晴しいテーマとストーリー、充実した配役、映像に対するこだわり。すべてお気に入りなのに何かものたりない・・。
満足すべき料理なのに素直によろこべない。ような・・。
やがてその答えとして思いついたのがコレ。
表現の味わい方にはいろんなものがある。
ありきたりのテーマがありきたりに描かれた時の小気味よさ。
下品な役者の下品という品。
決まりきったユーモアの持つ安心感。
「トランセンデンス」のような立派な作品は好きだ。しかし先にあげたようなカジュアルさはあまりない。映画は立派であればいいというものではない・・。
鑑賞者はいろんな表現を好む。これは立派な表現を知らない事とはちがう。
特上のコース料理は好きだ、しかし食べなれたレトルト食品もわるくない、である。
ただこれら好きな料理を混ぜれば最高の味になるわけではない。だからこうして欲しい、ああして欲しいとはいわない。その結果、この映画はウォーリー・フィスター流の凝った映画なんだ、という納得の仕方になってしまうのかもしれない。
「トランセンデンス」は、難解でも曖昧でもない。しかしふだん見慣れたSF映画とは一味ちがう上品でちょっとだけ重い味わいの作品だ。
もう一つの答えとして思いついたのは、論理的な科学技術者を主人公にして人類の救済やAIを描くとこんな風になるということ。
「コンピュータに自分の自我を証明することができるか?」
「人間は愛しながら逆の行動を取ることもある。」
映画の中で語られるセリフである。
「トランセンデンス」は、科学技術文明のユートピアを描いたいい映画であることはたしかだが、
アンドリュー・ニコル監督がそれに翻弄される人間を主人公にしたのに対し、
ウォーリー・フィスター監督は、さらに科学技術をつかって人類や地球を救済しようとする神のような人間を主人公にしてしまった。「海底二万里」のネモ船長を思い出す。
ジュール・ヴェルヌのSF小説から冒険話をとって恋愛話をプラスするとこんな感じなのかもしれない。
*写真は映画.com http://eiga.com/movie/79708/より。
*アンドリュー・ニコル作品に関する記事
「ガタカ」
「タイム」
2014/09/05
「鑑定士と顔のない依頼人」ジュゼッペ・トルナトーレ
監督は、「ニュー・シネマ・パラダイス」の名匠ジュゼッペ・トルナトーレ。主演はジェフリー・ラッシュ。
■物語:
独身で年老いたオークショニア、ヴァージル・オールドマンは、業界の誰もが認める一流の美術鑑定師である。しかし一方で彼は、美しい女性肖像画を、贋作として安く手に入れる欺瞞行為を繰り返してきた。彼の隠し部屋には多くの美人画が飾られていた。
■物語:
独身で年老いたオークショニア、ヴァージル・オールドマンは、業界の誰もが認める一流の美術鑑定師である。しかし一方で彼は、美しい女性肖像画を、贋作として安く手に入れる欺瞞行為を繰り返してきた。彼の隠し部屋には多くの美人画が飾られていた。
相棒は、かつてヴァージルに才能を認めてもらえず画家を断念したビリー、修復師の青年ロバートである。
こんなヴァージルに突然遺産の鑑定依頼がくる。しかしこの依頼人の女性クレアは姿を見せない。自分の思い通りに仕事ができない鑑定士のプライドは傷つく。実はクレアは正常ではなかった。人にあうことを恐れ、屋敷から外に出たことがなく、誰もその姿を見たものはいなかったのだ。
しかしヴァージルは、この遺産の中に見たこともない珍品を発見する。それは実在するかどうかも不明な伝説の自動人形の部品だった。
こうしてヴァージルは、クレアにふりまわされることになる。
彼は、依頼人の姿を確かめたくなる。そしてそれまで女性に対して抱いたことのない感情をクレアにもちはじめる。やがてそれはクレアに対する愛になっていった。
そんなヴァージルに対し周りは答える。
ロバート: もし愛の虚実を確定できれば、恋愛は競売にかける事ができる。
ビリーは、かつて鑑定師ヴァージルの審美眼によって画家になる夢を摘み取られてしまった。そしてオークションの入札額を操作する相棒役をさせられていることへの仕返しをしたかった。
■クレアの愛の虚実
こんなヴァージルに突然遺産の鑑定依頼がくる。しかしこの依頼人の女性クレアは姿を見せない。自分の思い通りに仕事ができない鑑定士のプライドは傷つく。実はクレアは正常ではなかった。人にあうことを恐れ、屋敷から外に出たことがなく、誰もその姿を見たものはいなかったのだ。
しかしヴァージルは、この遺産の中に見たこともない珍品を発見する。それは実在するかどうかも不明な伝説の自動人形の部品だった。
こうしてヴァージルは、クレアにふりまわされることになる。
彼は、依頼人の姿を確かめたくなる。そしてそれまで女性に対して抱いたことのない感情をクレアにもちはじめる。やがてそれはクレアに対する愛になっていった。
ヴァージルはクレアの愛も感じるようになる。しかしこれまで女性を拒絶してきた鑑定師にとって、愛の証拠を見つけるというのは難しいことだった。恋愛に虚実というものはあるのか? 信頼できるものなのか?
そんなヴァージルに対し周りは答える。
ロバート: もし愛の虚実を確定できれば、恋愛は競売にかける事ができる。
秘書 : 女との暮らしというものは、競売でいえば、THE BEST OFFER (映画の英名=最高の落札)と同じです。
ビリー: 愛にはどんな虚実もある。
ビリー: 愛にはどんな虚実もある。
クレア: あなたは私に興味があるのか? それとも私の遺産に興味があるのか?
自動人形が修復されてゆくにしたがい、ヴァージルは、自分のようだと嫌悪感を感じる。
ヴァージルは、クレアと暮らす人生へと舵を切る。
自動人形が修復されてゆくにしたがい、ヴァージルは、自分のようだと嫌悪感を感じる。
ヴァージルは、クレアと暮らす人生へと舵を切る。
こうしてヴァージルにとってすべてが自分の思い通りに進んでようにみえた瞬間だった。最後の仕事を終え家に戻ると、クレアは消えていた。隠し部屋にあった多数の美人画コレクションとともに。
ヴァージルは騙されたのだ。部屋には自動人形が置かれ、「贋作の中にも真実はある」というヴァージルの言葉を繰り返していた。
■物語:ここからが問題
物語は終わっているのに、映画は終わらない。ヴァージルは、精神病院でリハビリ。
物語は終わっているのに、映画は終わらない。ヴァージルは、精神病院でリハビリ。
ヴァージルに事実を語るのは、クレアの住んでいた屋敷の正面にあるカフェに置かれた自動人形。
人形は見たことを正確にカウントしていた。クレアが屋敷を出た回数は200回をこえていた。
(私はキルナ・スタメルは小人役ではなく人形役だと思う)
(私はキルナ・スタメルは小人役ではなく人形役だと思う)
クレアの生活はすべて偽りだった。ロバートは仲間だった。
そして罠を仕掛けたのは、たぶんビリー。
そしてヴァージルは、ビリーが描いたクレアの肖像画を手にプラハへ。
そこには以前クレアから聞いた店があるかも知れないと思ったのだ。クレアが一度だけ愛した男と会ったという不思議なカフェだ。
カフェは実在した。「贋作の中にも真実はある」である。彼は彼女を待ちづづける。あてはないが・・。映画はここまで。
続きを見れば見るほど主人公が哀れに思えてくる。なにもここまで老人を痛めつけなくてもいいのではないか? ジェフリー・ラッシュ演じるヴァージルは袋叩きにしたくなるような男ではない。
トルナトーレ監督は、なぜこの映画をつくったのか? 鑑定士のような人間に、よっぽど嫌な思いをさせられたのか?
観客は、報われない愛の結末に嫌な気分で映画を見終わる・・。
トルナトーレ監督は、なぜこの映画をつくったのか? 鑑定士のような人間に、よっぽど嫌な思いをさせられたのか?
観客は、報われない愛の結末に嫌な気分で映画を見終わる・・。
■事件の背後にあるもの
この作品は落札価格を扱いながら”カネ儲け”を軸に物語が展開していない。
この作品は落札価格を扱いながら”カネ儲け”を軸に物語が展開していない。
ヴァージルが美人画を収集する理由はお金ではない。
天才たちが実名を残さず描いた贋作。この特殊な絵の中には、ヴァージルにしか鑑定できない女性の美しさがある。これがヴァージルに安堵感を与えている。
収集は本物の女性を知る怖さからきたものだが、クレアの人間拒絶症に通じるものがある。
収集は本物の女性を知る怖さからきたものだが、クレアの人間拒絶症に通じるものがある。
”カネ儲け”という価値観がないのは、ヴァージルだけではない。ビリー、ロバート、クレアもだ。お金が必要だと思わせるシーンは一度も出てこない。これだけ手の込んだ罠なのに、何のために罠を仕掛け、儲けた金をどう使いたいのかもわからない。
ビリーは、かつて鑑定師ヴァージルの審美眼によって画家になる夢を摘み取られてしまった。そしてオークションの入札額を操作する相棒役をさせられていることへの仕返しをしたかった。
彼は、鑑定師を出し抜く計画を立てる。そしてクレア、自動人形という餌を使ってヴァージルを騙し、これまでのコレクションも、クレアも奪い去り、皮肉としてヴァージルが認めない自分の描いた絵(クレアの肖像画)を送りつけたのだ。積年の恨みは晴らされた・・、という話なのか?
しかしこれでは映画はビリーの物語になってしまう。監督は観客とともにビリーの勝利を祝いたかったわけではないと思う。
しかしこれでは映画はビリーの物語になってしまう。監督は観客とともにビリーの勝利を祝いたかったわけではないと思う。
つまり、この作品は、”贋作鑑定士の盲点をついた詐欺”のような一般的なミステリーではなく、どこまでもトルナトーレ監督の興味をもった孤独で純粋な鑑定師の物語なのだ。
監督が観客と共有したかったのは、THE BEST OFFER (映画の英名=最高の落札)。美術品なら鑑定によって相応な落札額をつけ、手に入れることができても、愛はヴァージルのように、自動人形のような正確な鑑定士をもってしても落札はむずかしい、ということだろう。
たとえ鼻持ちならない鑑定士であっても、クレアにふりまわされるヴァージルの姿は純粋で、むしろ好感が持てる。長年にわたって築き上げた美術鑑定師をやめ、それまでの人生から新たな世界へ飛び出そうとする活き活きとした姿が共感をよぶ。
たとえ鼻持ちならない鑑定士であっても、クレアにふりまわされるヴァージルの姿は純粋で、むしろ好感が持てる。長年にわたって築き上げた美術鑑定師をやめ、それまでの人生から新たな世界へ飛び出そうとする活き活きとした姿が共感をよぶ。
■クレアの愛の虚実
罠が成功する為にはクレアは徹底した悪人でなくてはならない。
それを伝える方法として、最後の方でクレアが愛の言葉を語るシーンが挿入されている。
しかしこの画面から虚実は分からなかった。
愛が存在した、というなら救いがある続きが欲しい。
愛は存在しなかった、というならゾッとするようなオシャレなエンディングが欲しい。
どちらもなかった。
■トルナトーレ監督が考えたこと
物語の中心はあくまでも鑑定士ヴァージルだ。
ヴァージルは、クレアの愛を感じたが”偽り”だった。しかし偽りの中に”プラハのカフェ”という”真実”を見つけた。これからヴァージルは、この真実と暮らしてゆくことになる。観客から見れば、報われない方法であっても、それがヴァージル流の純粋な鑑定士の生き方なのだ、というのがトルナトーレの考え方ではないだろうか。ちょっと強引だろうか?
映画は魅力的だった。しかし、ヴァージルが罠にはまって以降の展開には混乱した。正直言って難解というより曖昧な作品に思えた。英語と字幕を理解できていないのかもしれないが、もう少し意味のわかりやすい表現にしてくれても作品の価値は下がらないと思う。
しかしこの画面から虚実は分からなかった。
愛が存在した、というなら救いがある続きが欲しい。
愛は存在しなかった、というならゾッとするようなオシャレなエンディングが欲しい。
どちらもなかった。
映画は、ヴァージルは純粋だが哀れな鑑定師という印象で終わっている。
物語の中心はあくまでも鑑定士ヴァージルだ。
ヴァージルは、クレアの愛を感じたが”偽り”だった。しかし偽りの中に”プラハのカフェ”という”真実”を見つけた。これからヴァージルは、この真実と暮らしてゆくことになる。観客から見れば、報われない方法であっても、それがヴァージル流の純粋な鑑定士の生き方なのだ、というのがトルナトーレの考え方ではないだろうか。ちょっと強引だろうか?
映画は魅力的だった。しかし、ヴァージルが罠にはまって以降の展開には混乱した。正直言って難解というより曖昧な作品に思えた。英語と字幕を理解できていないのかもしれないが、もう少し意味のわかりやすい表現にしてくれても作品の価値は下がらないと思う。
それにしてもトルナトーレ監督は、「ニュー・シネマ・パラダイス」といい、失ってしまったものへの執着が強い。そしてしつこい。
2014/07/31
宮崎駿「風立ちぬ」-日本の景色は良かったけれど
ツタヤで「風立ちぬ」のDVDを借りて見る。
■ストーリー
飛行機作りを夢見る少年が、軍需工場の設計技師になり、、自分の納得のゆく性能の飛行機を完成するまでのエピソードを描く。エピソードの中で、主人公は不治の病をもつ恋人と結婚し、支えあいながら設計を続ける。
実在した人物をもとに制作したストーリーなので、時代は日本の戦争に向かう時代に設定され、当時の日本の姿がリアルに描かれている。
■構成
アニメなのに大部分が人間の実写映像でもおかしくないような現実的シーンからできている。しかし何層にも重ねたハンバーガーのように、ストーリーにはたびたび夢が現れる。夢では飛行機にまつわる様々なシーンが出てくるが、夢を引っ張るのは、少年が憧れたイタリア人航空機設計者カプローニ。「飛行機は人を乗せることも爆弾を積むこともできる」と語らせている。
■背景画とアニメーション
このアニメ、1番驚いたのは古い日本独自の景色の素晴らしさだ。
今はわずかしか残っていない古き良き時代の田舎。畑、田んぼ、茅ぶきの家、小舟を浮かべた川。そんな場所を列車が走り飛行機が飛ぶ。
東京では瓦屋根の日本家屋と庭。その暮らしぶりと所作もかつては多く存在した日本文化だ。宮崎監督は、小津安二郎の映画のように、強いこだわり持ってこれらを描いている。
洗練された日本の文化や景観は未だにミステリアスである。
私は昨年から始めたPinterest(SNS)に「古い日本のスタイル」というボード(カテゴリ)を持っている。このフォロワーにはぜひ見てほしい日本だ。
アニメーションとしては、関東大震災の圧倒的なシーンが印象的だった。避難する群衆、火災のシーンは、アニメ関係者なら垂ぜんもの。こんなスケールのアニメはめったに見られない。技術的にも誰も到達できない前人未到の領域に踏み込みたいという監督の強い決意を感じた。
■戦争に対する主人公の現実感
設計に夢中な主人公に現実を語る人物が2人登場する。彼の同僚とドイツ人のスパイ(?)だ。
主人公はそれに対し特に反応はしない。子供のように高性能の飛行機を設計する夢を追い続ける。戦争に対する現実感がないようにも取れる。
例えばこの作品が、主人公は「自分は兵器を設計しない」といって国と対決し、恋人にも理解してもらい、別の行動を選択するヒーロー物だったらどうだろう。
しかし監督は、そんなどこにであるストーリーを作ろうとはしなかった。
作品では主人公の近くにいる2人に現実を語らせた。
そして主人公には、いつの時代でも否定されがちな無垢で個人的な行動をとらせ、それを肯定してみせた。
これは勇気のいることだ。なぜなら弱さの肯定にもつながるからだ。
■設計に対する現実感
主人公の夢は航空機を設計することだ。それは途中から高性能な戦闘機になってゆく。
しかしこの描き方は戦闘機ファンには不満が残るはずだ。なぜなら開発にあたってどんな困難があったのかが曖昧だ。
監督は航空機に関しては相当なマニアなはずだ。だが出てくるのはドイツのユンカース社のみ。
当時ドイツにはメッサーシュミット、英国にはフォーカーハリケーン、スピットファイヤー、米国にはロッキードやグラマンといった名機を生み出すことになる会社がしのぎを削っていた。ゼロ戦につながる高性能機を開発するのなら技術を比較する説明ぐらいは欲しかった。
■恋愛(1度しか見なかったので記憶違いがあったら失礼)
軽井沢で絵を描く菜穂子に再開した時のシーン。
モネの絵が元になっていること、観客が恥ずかしくなるほど監督の思い入れがある画面であることは伝わってきた。しかし主人公の受けたインパクトがよくわからなかった。
古式ゆかしい初期、切り紙のグライダーを介したのびのびとした関係、感情が深まってゆく後半、死を避けられない末期と、よく描かれていた。
話題になっていた喫煙シーンとはどんなものかと思ったが、あのシーンが問題になった現代社会自体が怖くなった。むしろ菜穂子の、愛と、死を意識した姿に感動した。
■宮崎駿は何を言いたかったのか
観客が感じたのは、主人公の無垢さや純粋さと言うより疑問だったのではないだろうか?
飛行機の在り方は夢の中のカプローニに語らせ、戦争という現実は周り(同僚とドイツ人)に語らせたために、主人公の人間としての存在感が希薄になってしまった。
主人公が戦闘機設計者ではなく、日本の料理人や画家だったら疑問は少なかったと思うが・・。
今の時代、観客は主人公のように只々戦闘機作りにかかわるなどできない。主人公に共感できない観客は何に共感すればいいのか?
「時代に従うしかない、しかし何が起きても夢を捨てずに生きなくては」
ではあまりにも・・。
このアニメを見ている間、私はゲームの「ぼくのなつやすみ」の中にいるようだった。このゲームは何もしなくてもストーリーが進み終わってしまう。
アニメの技術は素晴らしい。しかし実写だったら見なかったかもしれない。
*写真はアマゾン 「風立ちぬ」DVDより
2014/06/26
戦争映画「フルメタル・ジャケット」と"亡国の徒”
「スターリングラード」は悲惨だが、エンタメ系ヒーロー物なので最後にはハッピーエンドが待っている。しかし「フルメタル・ジャケット」(スタンリー・キューブリック監督)にはラブストーリーもないし勝者もいない。
最後は、”ミッキーマウス・マーチ”による行軍だ。すごい。
この時代の巨匠たちは、カメラを振り回してストーリーを観客に押しつけるようなことはせず、カメラを素晴しいアングルに固定して目の前で起きている事実をひたすら記録する。そして撮影されたカットを巧妙につなげることで観客にストーリーが浮かぶような映像作りをしている。この手法によって究極のリアルさがうまれる。
DVDの特典には、「コッポラの「地獄の黙示録」のあとだったので、それ以上の作品にしたかった。」とある。
「地獄の黙示録」は、まさに戦争の狂気を描いているが「フルメタル・ジャケット」もそれに勝るとも劣らない作品に仕上がっている。
■前半
アメリカ海兵隊員は、戦地に向かう前に訓練によって人格を破壊され、ただ命令に従う屈強な肉体だけに生まれかわる。訓練が終盤に向かう過程で集団には落伍者を排斥する作用が生まれる。そして落伍者は異常者に。
■後半
ベトナムでの現実と悲惨な戦い。
前半の不快さ、後半の愚かさと虚しさ。
2度と見たくないようなこの映画の不気味さこそ、戦争そのものではないだろうか。
私の祖父は日露戦争で中国へ、父は太平洋戦争でラバウルに行った。
しかし戦争の話はしようとしなかった。
叔父は熱血硬派の方だが、戦争の話をしてくれたのは1度だけ。それは敗戦時の上官に対する失望感だった。
[戦時中、釣り人は"亡国の徒"と呼ばれたらしい]
30年前、バスフィッシングに夢中だった頃、琵琶湖にある「自衛隊前」という有名なポイントにボートで出かけたことがある。土手から水面までコンクリートのゆるいスロープになっていて、自衛隊の舟を出し入れする場所だった。
釣をするのはスロープが水没している先の杭群だったが、スロープの上の土手には小さな青年が1人座り込んでいた。その後ろには少し離れて女性が立っていた。たぶん新米の自衛隊員とその母親なんだろうと思った。
女性は青年に話しかけていたが、青年の方は黙ったまま遠くを眺めていた。2人は、こちらを気にする様子もなかった。私のボートがやって来るずっと前からそうしていたようにも思えた。
私はブラックバスに出会えそうな有名なポイントに着いて緊張していた。
杭の1本1本にむけてルアーを投げ込んでは巻き戻す動作を繰り返して杭に身をひそめた魚を誘っていった。丁寧に、そして慎重に。
しかしこの日はなんの反応もなく、すべての杭をチェックし終えたあとにはかるい虚脱感があった。
土手を見上げると、まだ2人はそこにいた。
あんな子供のようなひ弱な青年に国を守ることができるのだろうか? 国を守るということを自分から考えたことがないようにもみえた。
私は次のポイントに向かう為、沖に向かってボートの向きを変えた。
私は戦争体験はないが、自分の子どもたちに参戦させたいとは思わない。人間は神ではない。ある時は強くてもある時は弱いものだ。戦争の現場では狂気の世界に取り込まれる。戦争にどんな大義名分があろうと関係ない。
・戦争の狂気を描いた映画は多い。
アメリカ映画:「ディア・ハンター」、「プラトーン」、「地獄の黙示録」
ヨーロッパ映画:「ブリキの太鼓」、「地獄に堕ちた勇者ども」
・戦争について記述した重要な項目
2014/02/28
柩形のDVDパッケージ
あと1ヶ月で定年退職。研究費で購入した書籍やDVDを図書館に持っていくことになった。
3年前に手に入れたClassic Monsters Collectionには「フランケンシュタインの花嫁」、「透明人間」、「ドラキュラ」、「大アマゾンの半魚人」の4本のDVDが入っている。柩形のパッケージがお気に入りだった。
10月、入院中に観ようと家内に頼んだが、持ってきたのは中身だけ。たしかに! 病室に柩じゃね。
大アマゾンの半魚人はオススメ。泳ぎ方が独特。
この時代、ホラー映画はモンスターを見に行くのが目的で、お化け屋敷やサーカスの代わりだったことがよくわかる。
2013/08/09
映画「ムーンライズ・キングダム」
なんという映画だろう。
映画とは、物語を映像で語るウソ(虚構表現)なのだと突きつけながら、それでもなお観客を楽しませてくれる技。これこそウェス・アンダーソン監督の真骨頂なのだろう。
舞台を見ているようにして、観客はいつしかこの語り口に引込まれてゆく。
子供を主人公にした大人向けの恋愛映画。
恋愛作品は、世間のしがらみを加えることよってリアリティのあるものに仕上がるが、恋愛など存在するはずがない、という子供の世界を前提にしているところがこの物語のミソ。まわりの人間は戸惑うばかり。
恋愛作品は、世間のしがらみを加えることよってリアリティのあるものに仕上がるが、恋愛など存在するはずがない、という子供の世界を前提にしているところがこの物語のミソ。まわりの人間は戸惑うばかり。
手作り感にあふれたセットデザインと衣装。独特なカメラアングルと色彩。
とある島で起きたオママゴトのような2人の逃避行には、「”大人の恋愛”なんてものはないよ!」といっているような痛快さ(?)と輝きがある。

2013/07/24
映画「惑星ソラリス」 アンドレイ・タルコフスキー
■作品
惑星ソラリスの研究中止か継続かを調査するために宇宙ステーションに派遣されたクリスが、ソラリスの持つ不思議な力によって、亡くなった妻に出会い、失っていたものに気づく話。アンドレイ・タルコフスキー監督(旧ソ連/1972年の作品)。
■物語
主人公クリスは、惑星ソラリスに出発する前日、父の家に来ていた。彼は学者である。
昔から変わらない大きな池、湖畔にある家。そこにやって来たのは父の友人バートン。元宇宙飛行士だ。クリスはバートンからソラリスの報告映像を見せられるが特に興味は持てなかった。自分の見た物を信じてもらえなかったバートンは失望して帰途につく。
惑星ソラリスの軌道上に浮かんだ宇宙ステーションには3人の研究者が搭乗している事になっていた。しかし1人は自殺してメッセージだけが残っていた。そして宇宙ステーションにいるはずの無い少女と小人を見かける。彼らはソラリスが作り出した物体だった。やがでクリスの前に亡き妻ハリーが出現する。バートンの話は事実だった。
クリスはハリーをロケットに乗せて船外に発射するが再び出現する。やがて彼には彼女に対する不思議な感情が生まれてくるのだった。クリスはソラリスが持つ力を知る。そして科学でしか物事を見ようとしない研究者たちと、説明できない感情を大切にしたいと思うクリスとの間には溝ができる。ハリーは、自分がクリスの妻ではないことを気づきはじめる。
同僚の誕生パーティの夜。人間扱いをされないハリーは、研究者たちに「自分はあなた方よりも人間的であり、人間になりたい。」と語る。
その後ハリーは液体窒素を飲んで自殺をはかる。しかしソラリスの作り出した物体は、自分では死ねない。ハリーはクリスの感情に不安を感じるようになっていたのだ。
クリスも混乱する。クリスは夢の中でハリーを見る。そして若い母を。夢の中で場面は宇宙ステーションから古い家に移ってゆく。
目が覚めると、ハリーは消えていた。研究者に依頼して自分を消滅させたのだ。「だれも恨まないで。」というメッセージを残して。クリスは、地球に戻るか宇宙ステーションでハリーの再来を待つかなど考えてみるが結論は出ない。
気がつくとクリスは故郷の大きな池の前にいた。家があり、父がいる。しかしそこはソラリスの海に出来た島だった。
■テーマ
人は生きてゆく過程で子供の頃の楽園から追放され、かなわない願望のために多くの過ちをおかし、苦しみに耐えながら、あるいは無理矢理肯定して矛盾に満ちた人生を送る。しかしそれらの願望や矛盾は人間の潜在意識下に格納されている。
惑星ソラリスは、この意識下に格納された願望を具現化する力をもっていた。
かたくなな主人公は、これまで封印してきた感情に向き合い、自分を見つめ直し、格納されていた意識は解き放たれる。失っていた感情を取り戻す。それは妻、母、そして最後は父親に対する感情だった。
■シーンデザイン(はじめて観てから40年)
1.水草:この草のゆらめくオープニングシーンの良さは昔も今も変わらない。観客に映画を見る前の日常を忘れさせ、いつか見た光景を思い浮かべさせる。
2.湖畔の家:最初は家の新しさが気になったが、実は意図的なものだとわかる。父が気に入っていた祖父の家を再現したのだ。以前見たときは意図など気づかなかった。
3.ハイウエイ:当時、日本の首都高速が登場したときは安易だと思ったが、今見るとレトロでいい。都心までの長い高速道路は、文明が作り出した街と自然の中にある田舎との落差を表現してている。
4.車:これまで、車を運転していたのは主人公だと勘違いをしていた。バートンだった。この場面が長いのは、次の場面(夕方、私物を焼く。)までの時間の経過を表現したかったのか? 記憶を思い起こすバートン、記憶を始末しようとする主人公を対比的に描きたかったのか?
5.妻の写真:夕方、クリスは庭で私物を燃やして旅の用意をする。亡き妻の写真を宇宙に持ってゆく事が、以後の暗示となっている。
6.宇宙ステーション内部のデザイン:40年前は、キューブリックの「2001年宇宙の旅」を見たあとだったので、「惑星ソラリス」はみすぼらしく思えたが、改めて見ると悪くなかった。むしろ最近のSF映画と比べ、荒廃した様子が中途半端なのが気になった。
7.図書室:宇宙ステーションの30秒の無重力状態はこの古めかしい図書室で描かれる。この映画一番の素晴らしいシーン。図書室の物が、そしてクリスとハリーが浮遊し始め、カメラは壁に飾られたブリューゲルの「冬景色」をパンし、最後に雪の上で焚き火をする幼いクリスの映像に変わる。原作にあるかどうか知らないが素晴らしい設定だ。
8.現実社会を感じさせる場面がわずかしかないので(記者会見の場のみ)、ほとんど主人公の1人称映画といえる。タルコフスキーの、といってもいいだろう。
9.ヒロインのハリーは、以前見た印象よりはるかに魅力的に思えた。自分が何者か分からず、何をしたいのかも、なぜ存在するのかもわからないまま生きている(?)というのはこんなに魅力的なのだと。
10.衣装、カメラワークは楽しめた。それ以上に台詞は良かった。
■最後に
タルコフスキーは、人間の潜在意識に格納された良心の記憶を呼び覚まし、科学と対峙させ、愛の姿を浮かび上がらせた。そして彼は、ソラリスの海も故郷の池の水も、格納庫の扉をあける力として永遠に存在し続けるのだと語っているような気がした。
■追記
この映画を考える時、思い浮かぶのがTV映画「火星年代記」(1980 TBS)。火星人は、強い地球人から身を守るために地球人の思い出の人間になりすます。そして地球人の故郷の家まで再現するのだった。また図書室のシーンやクリスの記憶をたどる映像には、映画「2001年宇宙の旅」の影響が感じられた。
・レイ・ブラッドベリ 「火星年代記」 1950
・スタニスワフ・レム 「ソラリス」 1961
・スタンリー・キューブリック 「2001年宇宙の旅」 1968
・アンドレイ・タルコフスキー 「惑星ソラリス」 1972
原作は読んでいないので映画についてだけ語ってみた。
原作の良さと映画の良さは別だと思っている。
また、以前は感じなかったが21世紀に暮らすようになって165分は”長かった”。
2013/06/29
映画「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」 LIFE OF PI
この映画、プロモーションの方法がおかしかったのでは?
私は海洋冒険物かと期待して観始めてしまった。だから前半は退屈で、いつ冒険が始まるのかと、ずっとイライラしていた。そして期待したトラと漂流が始まった頃はもう疲れていた。しかもこの漂流も期待はずれだった。
そのころやっと監督のアン・リーが作ろうとしたのは、海洋冒険物ではない事に気づいた。もう遅かった。私の期待していたのは心温まる冒険物語であり、神の存在を知ろうとする少年の哲学的な話ではなかったのだ。
以前、小学生だった息子にジュール・ヴェルヌの「海底二万マイル」を読んでもらうと、「ネモ船長のウンチクをひけらかす様な喋りがうざったい。」という感想を聞かされたが、その事を思い出す。
もう一度、今度は字幕で観てみたい。ヤン・マーテルの原作を味わうつもりで。
子供の頃、インド洋のナギは鏡のような海面を作りだし、星が写ると宇宙の真ん中にいるような気分になって海に飛び込みたくなる、と聞いた。そんな美しいシーンがある。
映画「オンディーヌ・海辺の恋人」Ondine
「人魚姫」もこんな描き方があるのか。感心した。子役が良かった。「ミツバチのささやき」のフランケンシュタインと少女の出会いが脳裏をかすめた。
ロマンティシズムと現実の小気味いい取合せは、田舎の漁港を舞台にしているにもかかわらずオシャレな料理を味わったような満足感があった。もしこの映画に不満な箇所があるとすれば、恋愛の障害となるキャラクターが弱かったという点だろうが、そういう映画にしたくなかったのかもしれない。★★★★★
2013/06/23
映画「愛と哀しみのボレロ」 LES UNS ET LES AUTRES
音楽とダンスに情熱を注いだ4つの家族は戦争で苦しみを味わうが、その情熱は次の世代、時代へと引き継がれてゆくというストーリー。最後に大団円として歌とダンスのイベントが映画を締めくくる。この映画でジョルジュ・ドンは一躍有名に。
どんな作り方なのか。クロード・ルルーシュ監督の行なったマジックは以下のようなものだ。
私は時間を描いた作品が好きだ。だから「愛と哀しみのボレロ」はその中の1つになる。
30年前に観たのが新宿ピカデリー。今回はDVD。
TVモニタを観ながら、こんな映画の作り方があるのか? と感心した。
TVモニタを観ながら、こんな映画の作り方があるのか? と感心した。
どんな作り方なのか。クロード・ルルーシュ監督の行なったマジックは以下のようなものだ。
戦争という壊れそうなテーブルに、家族という4種類のトランプカードを重ねて置く。テーブルはきしみ、カードは滑り落ちそうになる。
そのカードを順番にめくってゆくとしだいに若い数になってゆく。時々ジョーカーを追加する。
最後に、めくられたカードすべてをシャッフルして並べてみると、いつの間にかテーブルは新品同様になっている。
そのカードを順番にめくってゆくとしだいに若い数になってゆく。時々ジョーカーを追加する。
最後に、めくられたカードすべてをシャッフルして並べてみると、いつの間にかテーブルは新品同様になっている。
世代を超えた4つのエピソードを同時進行し、一気にまとめあげた監督の手腕に拍手を送りたい。
しかし親子二世代を一人二役で演じているため観客は混乱する場合もある。さらにスピーディーな展開のため一度混乱すると置き去りにされる場合も。
この”一人二役”という設定には比喩があり意図的なものだと思うのだが・・。
私は時間を描いた作品が好きだ。だから「愛と哀しみのボレロ」はその中の1つになる。
しかしこの映画、監督、あまり評判が良くない。残念。一度はDVDで観てほしい。★★★★★
SHINJUKU PICCADLLYと印刷された¥450のパンフレット
2013/06/20
映画「星の王子さま」Le Petit Prince
ツタヤで「星の王子さま」DVDをかりて観る。
もしかしたら古いミュージカル映画じゃないかと思ったが、その通り。あまり期待せずに見始めたら、すばらしい映画だった。
舞台ではよくある手法だが、「星の王子さま」では登場する花や狐や蛇を人間が演じ、歌やダンスまで加えている。オシャレだ。ちょっと大人っぽさを感じた。
しかし、こういうミュージカル映画の作り方はうっとうしい、という方もいらっしゃるだろう。キャラクターはリアルなCGにし、歌や踊りなどは無い方がひたりやすいと・・。
それも一理ある。原作アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説は、風刺に満ちているが、叙情的で詩的なストーリーだ。
だがこの映画をCGのなかった時代の遺物だといってしまったらお終いだ。
映画の中にある様式(蛇を人間にすり替えてしまう擬人化)と、現実的な映像との間にあるズレの面白さを味わってほしい。その時ミュージカルは、能や狂言のような洗練された様式に見えてくるはず。
1974年に作られた「星の王子さま」の表現は、当時の斬新な発想や工夫に満ちており、それは今のリアルであれば分かりやすいという子供っぽい価値観とは別のものだ。
一見なんでも出来るような気にさせる現代の技術。その先には、表現のマンネリズムが待ち受けているような気がする。日本人は俳句や短歌を生み出し味わっている。そんな表現を映像化出来ないものか・・。
もう一つ、この映画を見て驚いたのは、主人公の王子さまの素晴らしさだ。この子に代わる配役など滅多にいないだろう。この子の前に立ったら、いくら子供の心を持ったつもりの人間でも大人であることを知らされる。
この作品がレンタル用としてDVDになったのは、新しい「星の王子さま」の制作が発表されたからだと思うが、この子にまさる王子さま役を見つけたのなら、それだけで観る価値はある。
さらにもう一つ、この映画、以前YouTubeで少しだけ観たことがあった。その時はパッとしないと思っていた映画が、じっくり観ると違ったものに見えた。
インターネットで映像をを閲覧するのは、お祭りで出店を食べ歩きするのに似ている。祭りではパッとしないような食べ物も、落ち着いた場所で食べればまた別の味がする。
映画「星の王子さま」は、私にそんなことを感じさせてくれた。
2013/04/25
フランス映画「遥かな町へ」 原作は日本の漫画だった
ツタヤでDVDを選ぶ時は動物の本能のような嗅覚が必要だ。4枚に1枚ぐらいは当たる。フランス映画「遥かな町へ」を借りて見た。感動!
思春期にタイムスリップする中年男の話。
パリに住む漫画家が、気がつくと自分の故郷の町に来てしまうところから物語は始まる。そして母の墓の前で彼は少年時代にもどる。
家には亡くなる前の母、妹、家出する前の父がいた。思春期の少年に戻ってしまった主人公は、戸惑いながら自分の家族や友人達と過ごし始める。
あらためて過ごす思春期は新鮮だった。しかし主人公の心は中年男のままである。そのことを気づかれまいとする気持ち、元に戻りたいと思う気持ち、そして、のちに家族につらい思いをさせることになる父の家出の原因つきとめ、家出をを止めたい気持ちが描かれてゆく。
故郷の田舎町は郷愁を誘い、古い時代の車も観客を癒す。タイムスリップ物の定番だが再現されたフランスの田舎町は行ってみたくなるような雰囲気である。配役もしっかりしている。やさしく綺麗な母親、やんちゃな友人たち、憧れの少女など。そして美少年主人公の行動が物語を引っぱってゆく。
感動して見終わったあと、ネットで映画を調べて驚いた。原作は日本の漫画、谷口ジローの「遥かな町へ」だった! 谷口ジロー? さっそく漫画を注文。読んでみた。
最初は映画の印象が強かったのでなかなか原作に入り込めなかったが、しばらくして谷口ジロースタイルに慣れてくる。いい話だ。そこには映画の短い時間では語れないディテールが日本人らしい語り口で丁寧に描かれていた。
連載漫画には全編を何ページで終了などという制限がないので作者の思うように描き込める。時には寄道のような展開があり、そこからゆらめきのような物語が生まれる。それがフランスで気に入られているのかもしれないと思った。もちろん才能あってのことだが。
一方映画の脚本は上映時間に制限がある。読切の漫画に近い。連載漫画のエピソードをすべて盛込むことなど不可能である。確かに物語という点では原作の漫画のほうが分かりやすいし説得力もあった。
連載漫画には全編を何ページで終了などという制限がないので作者の思うように描き込める。時には寄道のような展開があり、そこからゆらめきのような物語が生まれる。それがフランスで気に入られているのかもしれないと思った。もちろん才能あってのことだが。
一方映画の脚本は上映時間に制限がある。読切の漫画に近い。連載漫画のエピソードをすべて盛込むことなど不可能である。確かに物語という点では原作の漫画のほうが分かりやすいし説得力もあった。
しかしこの映画、独自の視点がある。それが設定や物語の変更につながっている。
・主人公 映画:漫画家(アーティスト)原作:設計士(自営業)
・主人公の住まい 映画:パリ 原作:東京
・主人公の故郷 映画:フランスの田舎町 原作:日本の田舎町(倉吉)
・お祖母さん 映画:一人暮らし 原作:家族と一緒
タイムスリップへの導入、父らしき男とすれ違う場所なども違っている。思春期エピソードには、漫画には無かったシーンがある。少年と中年の主人公が同時に出てくる場面まである。これらはサム・ガルバルスキ監督の独自の表現方法であると同時に、フランスと日本の倫理観や人生観の違いのようにも思えた。実はこの映画、日本版だったら気持ちが悪いと思って見ていた。
2013/04/02
映画「ニーチェの馬」Turin Horse(A torinói ló)
凄い映像ではじまる。言葉にすると、”馬が荷車を引いている”となるだけだが、映像には言葉では説明できない表現があることを観客は知る。そしてどこまでも長いカットがつづく。
物語:
この世のどこともいえない荒涼とした地に、父と娘が暮らしている。家には仕事ための1頭の馬がいる。生活は貧しく単調である。ほとんど無言である。2人は時々窓の外をじっと眺める。この暮らしが延々と続く。やがて異変が起こる。井戸の水が枯れ、馬が食事をしなくなり、ランプに灯りがつかず、火種も消え、生のジャガイモを食べるしかなくなる。
監督と制作:
この映画は2011年、ハンガリーの監督タル・ベーラによるもの。原題は「The Turin Horse(A torinói ló)、”トリノの馬”」。冒頭でニーチェがトリノで見た馬の逸話が語られ、映画のもとになっていることがわかる。ニーチェは(神は死んだ。」で有名な哲学者である。
テーマ:
私は、テーマは無垢な人間の”終わり”だと思ったが、観客は様々な感じ方ができるだろう。セリフがほとんどなくヒューマニスティックな物語もないからだ。
なぜ人間が終わるのか? なぜ監督は終わらせたいのか? この”終わり”のとらえ方がこの映画の楽しみ方でもある。退屈な映画だといってしまえばそれまでだが・・。
映像:
映像はとにかく凄い。撮影現場を想像するとワクワクする。
家の外は常に強風、木の葉が舞っている。石を積み上げた粗末な家。ドアは家も納屋も頑固な木製。庭には掘った井戸。周りは何も無い草地である。これを重々しいモノクロ映像で仕上げている。
この映画は強風のシーンばかりだ。この強風をどうやって作り出したのか不思議だ。大型扇風機を使用していることはもちろんだが、かなり引いた距離からのシーンもある。窓から見える遠方の木もゆれている。しかし強風の日を選んで撮影をつづけることなど制作上不可能だ。
画面を飛び交う木の葉は人為的なものだ。映画は、あんなに大量の木の葉をつけた木がある設定にはなっていないが、こういうオーバーな表現は好きだ。
家は野外セットか、元々あった家を映画用に改築したかどちらか。井戸はあきらかに作り物。この映画にしては新しすぎる。ロケ地は牧場ではないかと思われる。
これらを背景にして素晴らしいキャストが自然な演技をみせる。この演技は物語中心の映画では絶対に見られない。もし我々の日常生活の中でこんなシーンを撮影しても誰も見ないだろう。それほど作り込まれている。
また時には(ほとんど)何分も続く1カット撮影。黒澤明と違い動くカメラが多用されている。相当なカメラ撮影技術がいる。この映像が観客を引っ張ってゆくのだ。
映画として:
この作品、映画祭での受賞歴もあり、一般的な映画とは違った重厚で異質な作品として高い評価がされている。しかし娯楽性は皆無だ。
映画を見る行為は、食事と同様である。食べたいものを食べたい時に食べる。だが「ニーチェの馬」は普通のテーブルに並ぶような料理ではない。しかし一度食べたら忘れられない料理であることは確かだ。
2013/03/25
映画「ネイビー・シールズ 」と「ザ・ドライバー」のリアリズム
「ネイビー・シールズ 」をブルーレイディスクでみた。驚いた。風景があまりにも綺麗。特にフィリピンやコスタリカの田舎の風景は、細部までクリアで、光が草木や水や大地に鮮やかな輝きを与えている。めったに見られない映像だ。
これは映画の大部分を占めている戦闘シーンとは相反するもので、こんな美しいシーンをこの映画に入れていいものか、と思うほどだ。
今までブルーレイが特に綺麗と思ったことはなかったが、こんなに綺麗だったかと思い「ターミネーター2」を出してきて比べてみる。こちらは大したことない。
これは映画の大部分を占めている戦闘シーンとは相反するもので、こんな美しいシーンをこの映画に入れていいものか、と思うほどだ。
今までブルーレイが特に綺麗と思ったことはなかったが、こんなに綺麗だったかと思い「ターミネーター2」を出してきて比べてみる。こちらは大したことない。
もうひとつ驚いたのは、戦闘員が建物に入ってゆく時のゲームのような1人称映像。カメラの前には銃がある。臨場感がある。リアルだ。映画が公開されたのは1990年。まだ3DCGの1人称ゲームは一般的ではなかった。
これはカメラマンのせいだと思い、調べると「バニシング・ポイント」を撮影したジョン・A・アロンゾ。おそらくフィルム映像がスゴイのだ。この映画の綺麗さとはブルーレイのデジタル技術ではなく、それ以前の問題なのだ。
次の日にみた「ザ・ドライバー」は、ずっと古い1978年の映画だ。しかしこの映画、車のスタントがスゴイ。町中のカーチェイス、地下駐車場内でドライバーの腕前を見せるシーンは圧巻だ。
今やCGでなんでも出来るような時代になってしまった。「アイアン・スカイ」などを見ているとハリウッドでなくてもあんな映画が出来てしまうんだと思う。しかし映画が始まった頃は、実際に起こっていることを記録するのが映画独特の技術だったはずだ。車はこんな風に走り、揺れ、滑り、きしみ、擦れ、衝突し壊れると。
2013/03/23
映画 エイリアンバスターズ THE WATCH
「ゴーストバスターズ」のエイリアン版かと思ってDVDを借りる。全く違っていた。でも非常に興味深い点が2つあった。男性向けコメディだ。
■物語
なんとか地域に貢献したいと明るく生きている主人公がいた。彼の身辺で残忍な殺人事件が起こる。彼は犯人から地域を守るため”ご近所ウォッチャー”なる自警団を立ち上げる。ところが集まった連中は彼ほど生真面目ではなかった。それぞれいろんな事情があるものの、ただみんなで楽しく時間を過ごす名目が欲しかったのである。
”ご近所ウォッチャー”達は、まとまりもなく、住民から馬鹿にされ、警察からも白い目で見られ、観客からも呆れられながら(笑)、とにかく犯人探しを続ける。
そのうち犯人はエイリアンであることがわかってくる。彼らは人間の皮を奪ってまとい地球征服を目論んでいるのだ。隣に越してきた男は秘かにエイリアンのパーティーをを開き、仲間の娘はエイリアンのボスのターゲットにされていた。
そしてエイリアンを撃退、ハッピーエンド。
■興味深い点1
シリアスな点は微塵もない。普通のエイリアンものなら警察や国家組織などが動き、町の人々もそれなりの行動をする。だが彼らは子供の遊びのように自分たちだけで犯人探しを続ける。
■興味深い点2
特典メニューは必見。この未公開シーンを見ると、この映画、当初の脚本では人間関係や物語を進めるための数々のシーンがあった。それらがカットされているのである。
「興味深い点2」から想像できることは、この映画、もともとはエイリアンから地域を守るために奮闘する男たちのギャグを効かせた映画だった。ところがギャグが面白過ぎた(凄すぎた?)ため、まともな映画としては成り立たなくなってしまい、エピソードとエピソードを繋ぐ接着剤にあたるような箇所はカットして観客に想像してもらうことにしてしまったのではないだろうか。完全版を見てみたい気がする。
「興味深い点1」、彼らの子供っぽい行動を映画のリアリティの無さに結びつけやすい。しかしここがこの映画のロマンティックなところである。我々の暮らす成熟した社会はルールや規制にがんじがらめになっている。それを無視した甘い”ご近所ウォッチャー”達の行為は、なにかホッとしたものを感じさせてくれるのだ。ここが1番嬉しかった。
”ご近所ウォッチャー”達の行動は、社会常識から外れているとはいっても、一般常識は貫かれている。それはエイリアンなどいないという生活感覚である。
俳優には味があり十分満足した。豪華キャスティングらしいが私は知らなかった。
下ネタ乱射を浴びることを覚悟でみる必要がある。
2012/12/20
映画「ラム・ダイアリー」 THE RUM DIARY
ジョニー・デップの映画「ラム・ダイアリー」を見た。いい映画だった。酒びたりの映画だった。
時々、無性に南国の映画が見たくなる。キューバ、メキシコ、南米・・・・。
映画は、青い空と海の上を真っ赤なセスナが飛ぶシーンから始まる。カメラが追いかけ、観客の心をつかむ。これはきっと気持ちいい映画に違いないと期待させてくれる。南国の島、美しいプエルトリコが舞台。
ヨット、足漕ぎのレジャーボート、さらに真っ赤な1959年型シボレー・コルベット、可愛い小型車(フィアット・メルカートサラシーノ?)、サイドカーなど古い時代の小道具にあふれている。
キャスティングも素晴らしい。ジャーナリストの主人公、実業家、その愛人の美女、やり手編集長、薄汚れた記者仲間など、どちらかというと俳優中心の映画。
普段、私は俳優で映画を選ぶことはないが、ジョニー・デップの映画を見た後、銀幕(古!)を飾るカッコイイ男は、いつの時代でもいて欲しいと思ってしまった。
ブラッド・ピットの「リバー・ランズ・スルー・イット』、マット・ディモンの「バガー・ヴァンスの伝説」が見たくなった。
登録:
投稿 (Atom)















