B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。
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2015/08/19

室伏鴻のご冥福をお祈りいたします

昨日、舞踏家の室伏さんが6月にメキシコで亡くなっていたと知って愕然。
もう30年以上も会っていなかったが、一緒に仕事をし、私の感性に大きな影響を与えてくれた同世代人の1人である。画像は室伏さんの主催する”舞踏派背火”旗揚げ公演の際、担当したポスター(A1)。私が20代半ばのころ。

■踊りは山海塾の天児牛大、白虎社の大須賀 勇と同じく独特の型を持っていた。
"大駱駝鑑"創立時の主力メンバーでありながら、他のダンサーのように日本で知られていなかったのは海外での暮らしと活動が中心だったためと思っている。

■ダンスは土方巽直系の素晴しいものだった。ミイラの踊りを追求していたように思う。しかしそれにもまして優れた彼の才能は、近代の民俗学研究者や文学者に対する知見だった。そしてこのインテリジェンスと共に他のダンサーが及ばなかったのがプロデュース力である。彼は、"大駱駝鑑"の渉外役として力を振い、戦国時代でいえば軍師の役割をしていた。渉外の対象は芸術家だけではなかった。

シルクロードを目指す舞踏団を夢み、"アリアドーネの會"の設立に奮闘、"舞踏派背火"を旗揚げした。芸術家たちが地方に拠点を持つためのさきがけとなった。ヨーロッパでは暗黒舞踏の発表の場をつくった。彼がいなかったら暗黒舞踏が日本で一時代を築き、ヨーロッパにまで広がることはなかったと思う。

■学生時代からの付き合いだった。私の杉並時代の住まいは、もともと彼の住んでいた借家を引き継いだもの。
室伏さんとはずっとお会いできなかったが様子はたまに知人から聞いていた。
ご冥福をお祈りいたします。

*関連する記事:
山海塾 天児牛大さんの受章
矢野さんの思い出
ビーフシチューには杉並の思い出がある

2015/02/14

ポンキッキ時代 - その2 幼児教育番組に関わった人たち

1970~80年代は団塊世代の子供が育っていった時代にあたる。
TVを使った 幼児教育と産業が確立された時代でもあった。


■ヒダオサムさん
私を幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」に引っ張りこんだのはヒダオサムさん。その仕事ぶりには圧倒された。

実は私は、彼の代わりに「おかあさんといっしょ」の人形劇を依頼されたことがある。しかし始めた途端、週に3種類もの人形劇を作っていたら他に何もできなくなってしまうと思い、1か月後に辞退させてもらった。

この仕事では、朝から1人でNHKのスタジオに入り、人形劇のセットを作り、午後、収録が終わると食堂で次の台本の打ち合わせに入る。それがすむとタクシーで渋谷東急ハンズや原宿に材料を買いに行き、次の日に制作。そしてまた翌日に収録というスケジュールをこなしていかざるを得なかったのだ。

しかし当時のヒダさんの仕事ぶりは、この比ではなかった。幼児教育番組だけでも「できるかな」や「おかあさんといっしょ」、「ピンポンパン」にかかわっていたが、さらに雑誌や単行本まで執筆していたのだ。

こうしてヒダさんは、「できるかな」終了後、幼児教育番組「つくってあそぼ」立ち上げの中心的存在になる。そして番組のキャラクターデザインと造形指導を担当することに。

ヒダさんには仕事だけでなく、いろんなところでお世話になった。ヒダさんの劇団「ヒダマリオネット」については別の機会に記述したい。

■ノッポさん(高見映)
ノッポさんこと高見さんは、「ひらけ!ポンキッキ」の台本を書いていたので毎月打合せがあった。プライベートなことかもしれないが、高見さんの家は、ぜひ伝えておきたい建物。10年くらい前、歌「グラスホッパー物語」がヒットした際、特集番組でも紹介された(ような気が・・)。

家は池袋の下町にある薬屋さん。店は奥さんがやっている。とはいっても今のドラッグストアとは大違い。こんな昭和昭和した店は当時ですら見かけなかった。

2階への階段がまたすごい。まるで忍者屋敷だ。急で狭くて人がすれ違えないのはもちろん、ところどころに荷物が置かれている。しかも途中には小さなコンロと流しがあり、階段はここで90度に折れ曲がっているのだ。こうしてやっとのことでノッポさんの応接間へ。

六畳ぐらいの部屋にはTVとコタツがあった。ノッポさんの家はこの部屋しか知らないが、ここまで来るだけで十分招かれた気分が味わえた。打ち合わせのあとは奥さんが作ってくれた巨大牛肉入のカレーだった。

フジテレビでノッポさんとお会いした頃、正直いって私は幼児教育番組に特別興味があったわけじゃなかった。だからノッポさんも知らなかったし、スタジオで初めてガチャピンを見た時は、なんてキモチワルイ人形だと思ってしまった(ごめんなさい)。

しかしスタジオの皆さんと親しくなるのは、あっという間だった。わけも分からず始めた仕事だったが、いつのまにか番組に必要な人間になれていたんだと思う。だから自分の力を引き出してくれた皆さんにはすごく感謝している。
それまでは、自分に、制作のスケジュール組んたり、スタッフを使ってセットを作り、役者さんたちに気持よく演技してもらうサービス精神があるとは思ってもみなかった。

■松田さん・雨宮さん
ガチャピンとムック、通称GMと呼ばれていた。GMの声優が雨宮さんと松田さん。アクターは代わったが、2人はずっと変わらない。実はお2人とも舞台の役者さん。舞台ではまたひと味ちがう姿がみられる。すごい!
写真はずっと前、札幌日産のショールームで。真ん中が私。
「札幌に行く」とムックからメールがあった。私が教員になっても忘れられないでいてくれた。

小さなショーだったが、ショーを見ると「箱根彫刻の森」や「中野サンプラザ」で自分たちが作った大きなショーを思い出した。よくエンディングに使っていた”のこいのこさん”の「いっぽんでもニンジン」が好きだった。CMソングのヒットメーカーだったけど、どうしているだろう。

■レギュラーの役者さん達
いろんな役者さんたちと仕事をした。上の世代の方々では、ノッポさんと仲良しの”はせさんじさん”。共演していた”パンチョさん”は、役者より自分のクラブに熱心だった。クラブのドアの絵を頼まれて描いたこともある。たしか20何店目かといっていた。
同世代としては振付をしていた「劇団鳥獣戯画」の知念さん。一番明るかった。「東京乾電池」は超真面目。みんな長く仕事を続けている。

■幼児教育番組の裏方さんたち
工作番組というのはアイデア考案と工作制作からできている。「できるかな」では、ヒダさんの集めたは芸大の学生たちが工作制作をしていた。出崎さん、鈴木さん、竹内さん、朝山さんたちの強力なメンバーが結集していたあたりが黄金時代かも知れない。その後の世代が石崎さん、柳さん、今は2人とも大学教授。
(*このブログは、ノッポさんが自分で工作を考えている、と信じている人はいないと想定して書いています。ノッポさんは役者です。)

■おもしろ工房
「おもしろ工房」は、ノッポさんの書く台本用の美術工房としてスタートしたが、工作専門ではなかった。工作だけを担当したのはTBSの番組「ディズニークラブ」の半年間ぐらい。
米国には工作をTVエンターテイメントとして作る仕事はなく、「これは何という職業なのか」とプロデューサーが驚いていたが、答えようがなかった。こんな仕事をしていたのは日本に数人しかいないのだ。
久しぶりに「大駱駝鑑」麿赤児さんが公演のポスター依頼に来た時、私の仕事をみて「幼児教育界に咲いたあだ花だね」といったのが忘れられない。

工房の仕事の中心は工作からデザインにシフトしていたと思う。今から考えると、よくあんなにいろんな才能が出入りしていていたものだとも思う。彼らについては書く内容が多すぎて別のタイトルが必要だ。
当時、彼らはほとんど学生でだったが、今は立派になって活躍していている。だから口にするのはいいとしても、文章にして記述するのは気をつかう。中には漫画家として億万長者になった方もいる。もっともレアな話題のある時代なんだけど、いずれ。

札幌に来てから、自分の子供たちに「どうしておもしろ工房をやめたの?」とよく聞かれた。いろんな原因があるが「少子化による幼児教育産業の衰退」かなぁ~、と答えてきた。

今もう一つ答えられるとすれば、スタッフを、そして工房の制作力を維持していくのは簡単じゃないということ。仕事の中でデザインワークだけは自分にしかできないという自負があったが、仕事が多角化していくにしたがい、デザインワーク以外にも多くの時間をとられるようになっていた。さらに熱い依頼主も減ってしまった。仕事をコンパクトにしたかった。そしてMacに出会う。

ポンキッキ時代 - その1
ポンキッキ時代-その2とのあいだに余談

2015/02/01

ポンキッキ時代-その2とのあいだに余談

友人のヒダオサムさんがやっていたNHKの番組「つくってあそぼ」のことがFacebookに登場したので、同じ冊子をさがしてガレージの中をひっくり返してみたが、見つからなかった。当時この表紙のビジュアルを依頼されたことがあって懐かしくなったのだ。

データは残っていたのでPSで開いてみる。出版の日付は1994~1995になっていた。当時NHKには「ともだちいっぱい」という幼児教育番組系列があって「つくってあそぼ」はその中の1つ。後に独立して継続したのだ。忘れていた。

この頃、私の仕事はTV業界から印刷業界にシフトしていた。Macに夢中で、イラストでもカットでも写真合成でも、Macさえ使えれば何でもやってみた。そんな様子を知ったヒダさんからの依頼だったと思う。

ビジュアルはカメラマンがスタジオで撮影したキャラクターの写真を何枚かあずかり、3Dソフトで制作した素材と組合せてつくった。9✕6のポジフィルムに出力して印刷。
ポジは戻ってきた記憶があるので、それもガレージにあるはず。(いい加減な話ですみません)

もうポンキッキからは遠いところにいたと思う。ポンキッキを制作した”日本テレワーク”から独立した西澤さんの作った会社、”電脳商会”のデジタルコンテンツにも関わった。なんと日本版Macといわれる富士通のFM TOWNS用のソフトだ。
・・やたら懐かしなってきた。暖かくなって雪が溶けたらガレージを整理しようっと。

*「ポンキッキ時代-その2」は後日。


2015/01/27

ポンキッキ時代 - その1

■きっかけ
20代の半ば、杉並に住んでいた頃、毎週土曜の夜は近所の画家、村田夫妻のアパートで飲み会だった。メンバーは近くに越してきた芸大の1年先輩、ヒダさんと私。ヒダさんはNHKやフジTVの幼児教育版組で活躍していた。

そんなある夜、ヒダさんから、「朝までに段ボールの車を4つ作らなくてはならないけど、手伝ってもらえないか?」と頼まれたのが私のポンキッキの始まりだった。

午前1時に飲み会を終え、彼のアトリエにいって机ほどの大きさの一輪車、二輪車、三輪車、四輪車の4つの車を制作した。とはいっても私が作れたのは一輪車だけ(工事現場で使う手押車)。残りの3台はすべてヒダさんが作ってしまった。

この時受けたカルチャーショックは忘れられない。
段ボールとガムテープだけで、あっと言う間にそれぞれの特徴をもったデザインの車を作りあげてしまうヒダさん。それにくらべ常識的でリアルな車しか思いつかなかった私。眼から鱗が落ちる思いだった。

朝の5時、私はアパートに戻って寝たが、ヒダさんは別の仕事を始めていた。
 
■おもしろマシーン
当初、ポンキッキは、レギュラーではなかった。NHK「できるかな」の工作のお兄さん、ノッポさんこと高見映さんが、ポンキッキの台本を書いていたが、台本に出てくる仕掛け付きの美術が、フジテレビでは出来ないというので、これだけを制作していた。
しかし番組では、この装置がおもしろいというので、この装置だけのコーナーを作るなどし始めた。

こうして仕事が増えてきたので、ヒダさんと私は「おもしろ工房」を作り、アルバイトを雇って「おもしろマシーン」シリーズを制作していった。

「おもしろマシーン」にはいろいろなものがある。「ポンキッキ」のキャラクター”ガチャピン”、”ムック”や他の出演者が使う装置と、装置だけを見せるコーナーの2種類があったが、すべて言葉、数、色、形などを教育する機能を持っていた。

この装置は、後の時代にNHKに登場する「ピタゴラスイッチ」とも共通点はあるが、「おもしろマシーン」は、子供にも作れそうな工作であり、素材が幼児のまわりにある生活用品だけであること。ノッポさんがタップダンサー出身でエンタテインメント風の脚本に味付されているという点に違いがある。

最初はドミノ倒しのように全自動だったため、番組のきびしい条件内でマシンを制作するのは難しかったが、ネタがなくなって手動装置にしてからは、デザインに凝れるようになって、ちょっとしたマッド・サイエンティスト気分が味わえた。

■幼児教育番組
当時は、全テレビ局が幼児教育番組を持っていた。
ポンキッキには、、ピンポンパンというライバルがいたが、「およげ!たいやきくん」の大ヒットの後で自信を持っていた。とはいってもこれらの番組のブレーンはどこかでつながっていた。

私をこの世界に引き込んだヒダさんが所属していた”仕事場エンタープライズ”は、「できるかな」、「おかあさんといっしょ」、「ピンポンパン」と、有力番組の台本とアイデアを作っていた。

また幼児番組のスタッフは、過去の人形劇番組の関係者でもあった。
”仕事場エンタープライズ”代表は、劇作家の井上ひさしと一緒に「ひょっこりひょうたん島」の台本を書いていた山本護久さんだった。
ポンキッキをたちあげたメンバーで、石森章太郎の原画(私はそう聞いているが真実かどうかは不明)から、ガチャピンやムックのデザインをおこした光子館も、多数の番組の美術をしていた。

ポンキッキが独特だったのは、トッププロデューサーは、SF作家で、日本SF界の総帥といわれ、「スターウォーズ」を翻訳した野田昌弘だったこと。
番組は、野田さんがフジTVのディレクターだった頃、「泉ピン子さんをお姉さんにしたらどうだ。」などのとんでもないアイデアからスタートしたといわれている。
野田さんはいつも怒鳴り散らしている強者だった。しかしこんなにスタッフから厚い信望のあったリーダーにはお会いしたことがない。愛車フェアレディzで新宿駅まで送ってもらい、米国にブラッドベリを訪ねた時の話を聞かせてもらったこともある。

テレビを見ていると同じように見える番組も、私がかかわった18年の間に制作体制は随分変わった。お姉さんも6人代わり、ガチャピン・ムックの役者さんも代わった。

私は外部のデザイナーとして関わっていたが、この番組ではセットから小道具、人形劇、歌の映像など、何から何までやらせてもらった。やらなかったのは作曲・作詞ぐらい。番組は少子化にともなって縮小されていった。そしてやがて「ポンキッキーズ」に。
こちらにはほどんど関わっていない。

*札幌高専の学内ホームページに掲載した記事です。
ファイルの日付は1997年4月。時間が経っているので少し校正をしています。

*続きは後日。





2015/01/14

山海塾 天児牛大さんの受章

天児牛大さんがフランス政府芸術文化勲章コマンドール章(le commandeur de l'ordre des Arts et des Lettres)を 受章した。日本生まれの舞踏というものが世界のダンス史に残るという意味でも重要な出来事だ。

天児さんと知りあったのは私の学生時代。暗黒舞踏派「大駱駝艦」の創立メンバーだった。頭は剃っていたが、横須賀出身というのでリーゼントやスタジャン文化と、白塗りの暗黒舞踏文化がどうつながるの? と思ってしまった。もちろん天児さんのアメリカンスタイルは見たことはないが。

■暗黒舞踏
私の中では暗黒舞踏というのは以下のように整理されている。
時は1960年代。もともとモダンダンスからスタートしたダンサーのなかから、西洋ダンスにあきたらないダンサー、大野一雄、土方巽、笠井叡、石井満隆などが現れる。彼らの生み出した日本独自のダンスを「暗黒の舞踏だ。」とよんだのは埴谷雄高だと聞いている。

彼らはそれぞれが稽古場(スタジオ)をかまえるが、土方巽の稽古場には唐十郎、麿赤児など、後に「状況劇場」として活躍するメンバーが集まっていた。
「大駱駝艦」は状況劇場の看板役者だった麿赤児が独立して築いた舞踏集団である。

■大駱駝艦とのかかわりの中で
創立当時、大駱駝艦の表現は混沌としていた。演劇、舞踏、武芸など何でもありのアンダーグラウンド・パーフォーマンスである。街頭も表現の場だった。時代は70年代だったが、60年代サブカルチャーを引きずっていたと思う。

大駱駝艦とは学生時代からかかわりがあったが、卒業してすぐに3作品目「陽物神譚」(澁澤龍彦原作、土方巽客演)の宣伝美術を担当することになってより親密に。
麿さんが「ポスターを踊っちゃうから。」と言い出した時は驚いたが、舞台にはポスターから生まれたと思われる装置が本当にあった。

私がルネッサンスの画家アルトドルファーのスペクタクル画を加工してポスターを作ったせいもあるが、このあたりから大駱駝艦は舞踏とスペクタクルにという方向性を明確にしてゆく。60年代の方法は終わったのである。

当時、大駱駝艦には同世代の才能が結集していた。
天児さんは、すでに独自のダンススタイルを持っていたが、それはメンバー全員が同様で、特に目立つということはなかった。
ただ天児さんは何につけても職人肌。曖昧なことは嫌いで可能なことを着実に実現していく人間のように思えた。それは後になってそれぞれが独立して東京を離れたり、海外への進出を始めた時、より明確になった。

■山海塾
私は、山海塾の成功は先人たちの経験を踏まえ別の道を選択したことにあるのではないかと思っている。それは末っ子が上の兄弟を見て成長するのに似たような気がしてならない。

福井の北龍峡で天児さんにあった時、すでに山海塾は設立されていて日本中で公演をしていた。地方に拠点を置こうとはしなかったし、メンバーを増やそうとも女性を入れようともしなかった。この判断は、集団の在り方として、当時の暗黒舞踏派にはなかったものだ。

そこで何人かのメンバーを紹介され、私はバスケットボールチームのようだと思った記憶がある。強力なチームだった。

山海塾はツアー中心なので装置も少なく、どちらかと言えばミニマリズム的なシンプルな舞台だった。理にかなっていて無駄がなく天児さんらしい。山海塾は"きれいな暗黒" と呼ばれた。ほかに"明るい暗黒"といわれる舞踏派まで出てきた時代で、暗黒舞踏は新しい世代へ移りつつあった。

■時がたって
その後は何度かしかお会いしていない。山海塾は世界ツアーで知られるようになっていた。
銀座で会った時だと思う。「有名になっちゃったねー。」といったら、恥ずかしそうに笑っていた。

天児さんのことだからパリを拠点に活動を始めるにあたっては、きっと先にヨーロッパで活動をしていた日本の舞踏家たちを参考にしただろうと思った。

■鳩小屋
大駱駝艦が4作品目「皇大睾丸」の準備をしていた頃、稽古場をかねた宿舎は山王のお屋敷町にあった。1Fにガレージがあって、私はここを仕事場にして両性具有の人形を制作していた。
多摩川の河原にやぐらを建てて、この人形を吊り、人形の手足から伸びた糸を天児さんの手足に結んで動かすためだった。"天児"というのは人形という意味で、当時の天児さんの思いを込めた名前でもある。

この山王の建物には天辺に小さなサンルームがあり、ここが天児さんの部屋だった。「鳩小屋」と呼ばれガラス張りなので昼は暑かった。
この頃は天児さんが世界中で活躍するダンサーになるとは思ってもみなかったが、今になってみると、天児さんはあの「鳩小屋」で毎日空を眺めながら世界へ飛び立つ夢を育んでいたのかもしれない。

■終わりに:舞台表現の世界とネット世界
インターネットを始めてからこれまで、あまりにも舞台関連の記述が少ないのに驚いている。現代舞台美術の先駆者、金森薫。照明の神様、吉井澄夫。日本の人形劇演出の鬼才、清水浩二。まだまだいくらでもいるだろう。映画やアニメの世界と比べ、舞台表現に関わる記述ほどんど残されていっていない。

ここに書いたのは裏話のような内容だが、今回の受章によって、これからは舞踏がちゃんとした執筆者によって少しでも多く語られていくことに期待したい。天児さん、おめでとう。

2013/03/08

ビーフシチューには杉並の思い出がある

■久々にビーフシチューを作ってみた。
スネ肉が美味い。新しいアイデアとしてはジャガイモを塩味をきかせて別にゆで、その上にシチューをかけたこと。成功。

料理を始めたのは20代半ば。杉並に住んでいた。大工をしている大家さんの車庫の2階に住んでいたが、商店街が遠く食事が面倒だった。お金がなく、外食より作ったほうが経済的なのはわかっていたが、朝から晩まで人形制作をしていたので料理をする時間がもったいない。そこで思いついたのがシチュー。本を読んで本格的に作り始めた。

作るのは面倒でも1度作ってしまえば3日は料理をしなくてすむ。味も市販のシチューの元を使うのとではまるで違うので満足した。飽きたら途中からカレーにすればいいのだ。このために寸胴鍋まで買った。

■杉並時代は色んな意味で自分の人生の始まりだったと思う。部屋は舞踏家室伏鴻が住んでいたところを引き継いた。親戚だといえば礼金も敷金も必要ないと言われたからだ。近くには当時画家志望の村田康平がいた。幼児教育番組で活躍していたヒダオサム一家も越してきた。


ある時、六本木の中華料理店で働いている中学時代の友人がやってきた。人形を作っている私を見て「なんでお前がこんな馬鹿なことをしてるんだ。」と言われたことを覚えている。今では彼が言おうとしたことは理解できるが、当時は、自分考えた最も高貴で崇高な行為だと信じていた。毎日人形に胡粉を塗り、何日か経って乾いたら磨く。140センチぐらいの人形だったがこの作業の繰り返しが3年続いた。当時はこれを成し遂げないと、これまでの人生に決着がつかないぐらいの思いがあった。

またある時は突然窓の外から声をかけられた。「何をしてるんだ・・・。俺と一緒に暮らさないか。」

大家の屋根を直している職人だった。もちろんお断りしたが、今から考えると、当時の自分は宮崎駿の「魔女の宅急便」のような生活を送っていたのかもしれない(笑)。

大家のおばあちゃんからは、よく差入をしてもらった。宗教にも誘われた。おばあちゃんの宗教とは、みんなで集まって気持ちよく時間を過ごすことのように思えた。宗教ってこんな在り方もあるんだ、と思ったことを覚えている。

■部屋は3畳の台所兼仕事場と4畳半の小部屋。台所は壁も天井もレモンイエローに塗っていた(ターナーのネオカラー)。出てゆく時はさすがに申しわけないと思った。大家は大工なのだからと15000円だけ置いてきた。少なくともここに住んだ間にそれだけ払えるようになった私だった。冬の朝、流しにあったコップの水が凍っていたこともある住まいだった。

昔はよく料理を作った。しかし札幌に来てから作るのは酒のつまみだけ。ビーフシチューは年に1回ぐらいは作っている。スパイシーなトマト味が特徴。






2012/12/01

RZ250の盗難事件


■バックアップ用HDを見てみたら、古いホームページの記事ができてきた。

RZ250

実際に乗ってみて、もっとも乗りやすかったのは、ヤマハの初代RZ250だ。
私の友人でカッコ良さではピカ一の男がいる。黒のRZ250を350にボアアップして、黒皮のつなぎを着て乗り回していたが、初代RZには、今でもこんな乗り方が似合うような気がする。

ある日彼が私の所にやってきて「坂口安吾の小説、”桜の森の満開の下”にちなんで、紀州の桜前線を見に行きたい。しばらくの間バイクを交換してくれないか?」と言う。そこで私のXL250を貸して、かわりにRZ250を預かることになった。

RZ250は、バックステップになっていて、チェンジペダルのシフト感が少なく、頼りなく思えたが、慣れてしまえば自然に感じるようになる。セパレートハンドルでポジションも楽、軽いので取り回しもよい。加速力やブレーキは素晴らしく、重心が低いのか、走行安定性も抜群。良く曲がり、全く恐くない。ライダーにこれほど自由な気分を与えてくれるバイクも珍しい。ただし、あっと言う間にスピードに乗ってしまうので、気をつけないと切符を切られてしまう。

ある夜、突然このRZ250がなくなった。
10時に帰宅して、バイクを家の前に置き、ひと休みしたわずかの間だった。
隣は本屋で、まだ店は開いていた。親父さんに聞いたが知らなかった。私は夢を見ているような気分になった。だがキーとヘルメットは手元にあった。犯人はバイクを押して運び去ったのだ。

本屋の親父さんは、今すぐ一緒に車で探してやる、と言ってくれたが、私は交番に知らせて警察で探してもらったほうが確実だと思った。本屋だって商売中だと思ったのだ。だがこれが間違いだった。

交番では、ナンバーがわからないと探せないと言うのだ。交番の電話を借りて友人の奥さんに電話する。「買ったバイク屋にナンバーを電話で聞いてみるが、今夜はダメかもしれない。」と言う。当然、友人は今何処にいるかわからない。(*ケイタイのない時代)

「犯人は今、200キロのバイクを押しながら逃げようとしている。そんなに遠くに行けるはずがない。どうしても探せないのか。」と言ってみても警官は受け付けてくれなかった。なんという事だ。パトカーに連絡が出来ないのだ。これでは見つかるはずがない。時間はどんどん過ぎて行く。私は家に戻り、本屋の親父さんに協力を求めた。

驚いたことに本屋の車で探すとRZ250はすぐに見つかった。明かりのない、狭い路地裏に止めてあったのだ。そこには誰もいなかった。この時の気持ちは一生忘れられない。なくした物は沢山あるが、出てきたことは後にも先にもこれ以外ない。もう一度、夢を見ているような気分になった。

私は、RZ250を押して自分の家に運んだ。本屋の親父さんにお礼を言い、庭に入れようとした時だった。通りの向こうでこちらを見ている怪しい男達がいる。私は直感的にRZ250を盗んだ連中だと思った。私はとっさに家に入り、長い棒を持つと、もう一度通りに出てみた。すると彼らは、スクーターに二人乗りして、目の前に来ているではないか。さすがに今度は相手も驚いて走り去った。なんて大胆な連中だ。しかしこちらも証拠があるわけではなかった。

RZ250のハンドルにロックをかけ、シートに包むと、私は友人の奥さんに電話した。そして再び交番に行って一部始終を話した。警官はバツが悪かったのだろう、自転車で飛び出していった。
私は家に帰り、ビールを飲んだ。こんなにまで若者が欲しがるRZ250とは・・。
そして、友人が早く東京に帰ってこないかな、と思った。XL250が、恋しくなっていた。
(札幌市立高等専門学校学内ページ 1997)

XL250 トレールバイクの魅力

■バックアップ用HDを見てみたら、古いホームページの記事ができてきた。

XL250:

以前、「男のソフトバイク」という現在ではとても思いつかないコピーの広告のあった。ヤマハのタウニー50ccである。これが私の始めてのバイク(?)だった。

タウニーに乗っていて信号で止まると、隣にやたら大きく、背の高いバイクがやってくる。私は、いつもこのバイクを見上げていた。そして、バスケットボール選手にあこがれるように、私は、このバイクが欲しくなってしまったのである。XL250だった。

「ダートを走破する23インチのフロントタイヤ」ホンダは、いつもこんな風に新しい挑戦をして夢を与えてくれる。とにかくこれほど巨大なタイヤをはいたバイクは、後にも先にも世界でこの1台だけであった。

中古で手に入れたXL250。まずは東北自動車道を通って、青函連絡船に乗り北海道へ。そして10日間、北海道中を走った。休む時間を惜しんで走った。
当時は、エンジンの音さえ聴いていれば良かった。 バイクは、エンジン音を響かせているのだから、熊も出て来ないだろうと、無謀にも1人で林道へはいっていったのを覚えている。実は本当に恐いのは、林道での単独事故なのである。

XL250は、乗りやすかった。本当に良く乗った。テントを積んで鈴鹿8時間耐久レースを観戦にいったり、富士山の登山道を上ったり、小笠原諸島まで行った。河原でモトクロスの真似事をしてみたりした。自分の生まれた静岡の町と東京が地面でつながっているのを実感させてくれたのもXL250だった。
そして、やがてなんとなく次のバイクが欲しくなってきていた。ホンダのアイデア、23インチタイヤは、実際には重すぎた。大口径のおかげでブレーキもプアーだった。(札幌市立高等専門学校学内ページ 1997)


2012/11/08

矢野さんの思い出


矢野さんが亡くなった。80才だった。
告別式は久木の二葉会館。喪主の道子さん、大勢の参列者。懐かしい方々に会う。
出棺のあと横須賀の火葬場に。戻って妙光寺で最後のお別れ会をした。

矢野さんと会ったのは私が21才の頃。私は芸大の2年だった。それから40年以上の歳月が経った。今から考えると矢野さんは私より17才上だから当時は38才だったことになる。

そのころ私は、芸大の紛争が終わり大学に対する失望感や無力感があって、学外に何かを求めていたのだったと思う。学外ではいろんなことがあったが友人も増えた、友人に連れられて矢野さんお宅へ伺ったのが最初の出会いになる。

矢野さんのデザインワークは、カネボウハリス「チューイングBON」のデザイン、挿絵、化粧品のボトルとパッケージデザイン、本の装丁などなど。
東京に出かけるのが面倒なので自宅でデザインをしている。かつて人形劇団ひとみ座の舞台装置をデザインし、画家でもある。たくさんの蔵書があり、奥さんは詩人。鎌倉の有名文化人との交流がある。

クラッシックが好きでシャンソンが好きで、ビートルズが好きだった。トランペットを吹いていた頃もあったらしい。当時盛んだったアングラ演劇にも関わり、若手の才能を評価していた。自分は「焼け跡派」と称して既成社会に批判的だった。

友人から矢野さんはデザイナーだと聞いていたが、会ってみると正直言って正体不明の人物に思えた。私との接点は、澁澤龍彦周辺の文学、既成社会に対する批判、ビートルズだった。

それからは逗子の久木の家に何度も通い、泊めていただき仕事や個展のお手伝いをすることになる。毎晩酒を飲み、アートやデザイン、文学や音楽や演劇について語り合った。この間いろんな方が訪れ、奥さんも一緒だった。いつもビートルズがかかっていた。

しばらくお付き合いすると矢野さんのスタンディングポジションがなんとなくつかめてきた。70年代はデザイン職が細分化し、専業化したデザイナー、イラストレーターなどがデザイン界を賑わしていた。しかし矢野さんの若い頃はデザイナーという立場が認知されておらず、自分でデザイナーを宣言して様々な分野でデザインの意義を説く必要があったのだ。だから仕事は多岐にわたっているのだ。

実はこれは21世紀のデザイナーに最も求められていることだ。デザイナーは何でもできなくてはならない。物事の仕組みや取り組みの方法まで提案することが求められている。デザインは半世紀を経てまた同じ場所に戻ってきたのである。

矢野さんはその後、建築を設計し、後には仏画に専念することになる。そしてさらに精力的にウイーンでの個展、ヨーロッパでの暗黒舞踏の舞台装置、上々颱風の舞台装置なども手がける。矢野さんのことを知らない人に話す時は、「ダ・ビンチのような人だよ。」と説明している。矢野さんからはいろんな事を学んだが、師匠と言うよりは先輩のような存在だったと思う。

久木で告別式が行われたことは良かった。当時を思い出させてくれた。現在、久木の家は残っていないが、家には大きな桜の木があり、もと医院だった玄関には受付の小さな窓があった。出窓のある仕事部屋には、床に大きな電線の巻き枠がテーブル代わりに置かれ、壁際の自作家具には骨董品が並んでいた。多くの人がここに集った。仕事をし、そして酒を酌み交わした。それは自然と出来上がった異種交流の場だった。20代、この場から多くのものを得たと思う。矢野眞に感謝。合掌。

そういえば火葬場で不思議な事があった。
窓のブラインドを指で広げて外を覗くと、
100メートルほど先の丘の上にある住宅の屋根に、
大きなワシがとまってこちらを見ている。
しばらくするとワシはその巨大な羽根を広げ、
そしてまた閉じたのだった。
「おーい、俺はここにいるよ」と
矢野さんが私たちのことを眺めているように思えた。





2012/08/07

グランプリ受賞作品と背景について


作品
「Asia Network Beyond Design 2009」は、アジアという地域にあって様々な垣根を越えた交流を行う展覧会であり、中国、韓国、台湾、日本の4カ所で開催されました。私は各会場に向けて4点の作品を制作しています。グランプリ作品fruits 05は、3DCGアニメーション「視線で味わう果実」(HDV)の中から取り出した静止画です。本来ならアニメーションを出したかったのですが、初めて出品する展覧会で、しかも海外だったため、設営や搬出の事を考えて静止画にしています。

アニメーション
アニメーション制作を始めたきっかけは、2001年に出品した「DIGITAL IMAGE 2001 TOKYO」展【中国 韓国 日本 ディジタル・アートの現在】でした。3カ国の作品が同じ場所に並ぶと、それぞれの国の文化や技術の違いが明らかになります。中国や韓国の作品のテーマは、万人に分かる具体的なものが多く、違いは中国がシリアス、韓国はユーモアがあると言った具合です。また表現方法としては、説明的なものが多かったように思いました。

それに比べると日本の作家たちはテーマも表現方法も様々でした。まずは個人の境地あり、といったところでしょうか。文化の違いは明らかでした。それは、国が許容する文化の自由度の違いであるように感じられました。当時、既に技術の差はありませんでしたが、気になったのは、日本は静止画作品が多いのに対し、中国も韓国も映像作品に向かっていた事です。アニメーションを始めるきっかけとなりました。(文化の自由度については、「Asia Network Beyond Design 2009」では、かなり接近しています。)

食べ物のアニメーションシリーズ
私のCGは文学的なテーマを持っているものが多いため、分かりやすいと思っていたのですが、弟は、「実は、兄さんの作品は分からないんですよ。」と、こっそり家内にもらしている事を知りました。そこで私は「アートもデザインも食べ物と同じです。いろんな物を食べてみて、味覚の幅を広げたら、好きな物を食べるだけ。」と、弟にメールしました。そして実際にCGで食べ物を作る事を考えるようになりました。「眼で食べる料理」、「視線で飲むカクテル」、「視線で味わう果実」はこうして生まれたわけです。

学生時代
20代からいろんな形で作品発表を続けてきましたが、この15年くらいは童話を3DCGでシンボリックに描いた作品を作り続けています。どうしてこんな作品を作るようになったのでしょうか。
 表現に目覚めたのは学生時代です。海外からはポップ・アート、キネティック・アート、サイケデリック・アートなどが押し寄せ、音楽や映像やハプニングのイベントが盛んに行われていました。一方、演劇の世界では観客と舞台との垣根が取り払われ、寺山修司や唐十郎などを中心とした小劇場運動が全盛となり、歴史の闇の中にあった日本の情念や肉体表現が注目されていました。これが当時の現代美術とアングラ(アンダーグラウンド)です。

既成概念
きっかけは、入学祝いに貰った図書券で購入した「サド裁判」(現代思潮社)でした。それは「悪徳の栄え」(澁澤龍彦訳)が、猥褻罪で起訴された裁判の、特別弁護人による陳述記録でした。埴谷雄高、吉本隆明、大江健三郎、栗田勇など、文学者や詩人たちが、社会の既成概念に対し述べた反論は、それまで自分の中に無かった価値観をもたらしてくれました。その後、私は澁澤龍彦の紹介する異端文学とアナクロニズムに惹かれてゆきます。

暗黒舞踏
当時もうひとつ衝撃を受けたのが暗黒舞踏です。このきっかけはアルバイトで手伝った土方巽の舞台でした。暗黒舞踏は、西洋から伝わったダンスとはまったく異なったもので、白塗りの裸体、脱力した動き、リズムの合わない群舞といった特徴を持っていました。そこでは、我々が日常生活を営む動作がすべて無用となり、人は一度、物に帰ることすら求められているようでした。また舞踏には、肉体の鍛錬と修練によってしか生まれない技があり、資金やテクノロジーを必要とする当時の現代美術より、人間的な魅力を感じたのです。

人形と人形劇
人形に興味を持ったのは、当時、暗黒舞踏が“オブジェとしての人間”または“死者としての肉体”などと呼ばれていた事もあり、その先にあるのは人形だと思ったからです。人形の中にはオブジェとしての人形と、キャラクターとしての人形の2つの側面があります。前者にはハンス・ベルメールやシュールレアリストのマネキンがあり、後者は人形劇やアニメーションやゲームのキャラクターに相当する人形です。別の言い方をすれば、人格を剥奪された人形と、人格を与えられた人形と、言えるかもしれません。
 学生時代は人形劇サークルに属し、渋谷の天井桟敷館などで公演を行い、卒業後は、辻村ジュサブロー・アトリエでNHK「新八犬伝」の人形制作スタッフとして従事しました。そんな中で人形劇は、観客の想像力をかきたてるユニークな表現であることを実感していました。

暗黒舞踏派「大駱駝鑑」のポスター制作を始めたのはこの頃です。元々アングラの周辺にいたので、舞踏家達と一体になってポスター制作をした記憶があります。舞踏の世界は感性の密林です。素晴らしい感性を持った人間達が森を形成しているようにも思えました。肉体、体験、情念、イメージ、ナンセンスといった表現が、まるで原子炉の中の核のように飛び交っていました。そんな中で制作した「陽物神譚」のポスターは、澁澤龍彦の原作、土方巽の出演であり、それまでの自分の想いに区切りをつける仕事になったと思います。

「ひらけ!ポンキッキ」
「新八犬伝」では大きな副産物がありました。毎週NHKのスタジオに入っていたので、撮影や照明、合成の方法を知った事です。これらの知識は、後のTVの仕事では大変役に立ちました。「ひらけ!ポンキッキ」では“ノッポさん”こと高見映の書いた台本の“不思議なマシン” を考える仕事や、“ガチャピン”、“ムック”達の段ボール工作のアイデアを出していましたが、やがて番組全般に関わるようになって、仕事はアイデアからデザインに移行してゆきます。デザインソースを集めるため、情報をシャワーのように浴びるような毎日が続き、生活や、自然や、SFや、アートの世界を、幼児教育番組用にアレンジして映像美術として作り上げてゆく事になりました。
 
幼児教育番組の分野は、20代に目指していた鍛錬や修練とは別物でした。発想が重要だったのです。アングラ世界を形成していたものから、肉体、体験、情念を外し、イメージ、ナンセンスを残して、記号を追加した世界といったら良いでしょうか。子供は記号で世界を認識しています。「星の王子さま」の“象を飲んだウワバミ”の絵を思い出して下さい。大人にはこの絵が帽子に見えてしまうのです。幼児や子供の世界には大人が失ってしまった膨大な感性が詰まっていました。それは驚きや不思議の世界でした。その頃から私は、ほとんどの芸術やデザインは、あくまで大人の感性にむけて発信されていると思うようになりました。

TVでは、プロダクション・デザイナーのようにどんな条件でも、それに見合った最高の仕事をしてきたと思っています。ここには無名ですが多くの素晴らしいプロフェッショナルがいました。しかし私には少し気になる事があったのです。それは、ここではギーガーの“エイリアン”のような独特のものが作れないという事でした。

CG
CG始めたのはMacに出会ったから、と言っても過言ではありません。TVで行ってきたことは、Macさえあれば出来ると思わせてくれました。またそれまで維持してきた工房のように、設備や材料倉庫などのスペースを必要せず、Mac内に複数の工房を作れるので、独自の世界を創造する工房も持てると思えたのです。それは一旦マスメディアの外に立ってみる事でもありました。

PCを始めてしばらくすると3DCGのライティングによって不思議な世界が作り出せる事を発見しました。これは学生時代の人形劇や暗黒舞踏の舞台に近いものでした。そしてその世界の中に人形のようなシンボリックなオブジェを置いてみる事にしたのです。
3DCGは、シーンを設定してやれば、絵はPCが描画してくれるので、機械が仕事をしてくれる気分を味わえました。私は、結果が良いか悪いかを判断して修正してやれば良いのです。道具がオリジナリティを作り出せるとは思いませんが、“神は細部に宿る”の言葉のようにPCは、道具としては素晴らしい細部製造能力を持っています。絵の具を均一に塗る事が苦手だった私は随分助けられています。

この道具に欠点があるとすれば、方法さえ知れば誰でも同じ表現が出来るという事です。表現の極意とは、相手の認識を利用して、その延長線上に少しだけ認識を超えた作品を置いてあげる事ですが、これをPCで行う事は、私には手品のように思えてなりません。ポール・ギャリコの「ほんものの魔法使い」には、手品師の国に魔法使いが登場してみんなを驚かせます。方法を知っても誰も再現出来ない表現が出来れば、それは手品師が魔法使いになる瞬間だと、私は思うのですが。

個人の自由な表現
PCを使って遊ぶ自由は、大事にしなければいけないでしょう。それは、パーソナルだからです。労働が遊びになる時、手品の箱は魔法の箱になる可能性もあります。
札幌南区で暮らして13年、庭いじりを始めて5年になります。一見人の手が入っていないような庭を目指しています。裸足で草の上に立つと、私は子供に還ります。20代に暗黒舞踏から影響受けた“オブジェとしての肉体”や、“人形の2つの側面”などは、幼児教育番組時代のフィルターを通過し、自然の中に放たれ、足の裏から子供の頃の感覚となって伝わって来るように思えます。そして以前目指した鍛錬や修練による技術は、今はPCが肩代わりしてくれています。

作品の核となる部分は必ずしもテクノロジーに依存しているわけではないでしょう。核となるのは、作ったり味わったりする価値観だと思います。そしてテクノロジーが進化しても、人間は肉体を持っている限り昔と変わりません。価値観は個人の中で育まれるべきであり、そこには個々のストーリー(オリジナリティ)があります。私にとってそれは人形でした。人は、人形に存在しないものを見ています。それは“人形という鏡”に映った自分の姿です。オブジェに対しても同じ事が言えないでしょうか。それが今回制作した “果物形”です。これがデザインなのかアートなのかという事は、特に問題ではないと思います。幼児教育番組時代に培った驚きや不思議を創造する行為の一つにすぎないのです。この世界は デザインやアートの世界より広いと思っています。(敬称略)
(ICCアドバイザーコラム 2010/1月 2012/8月一部修正)




2012/08/06

デザインと小説「マサカヤ亭奇譚」


20代の後半、私は幼児教育番組の仕事をしていたが、夜は近所のスナックで漫画雑誌を読むのが日課だった。学生の頃、将来は白い壁とコンクリートの床を持った小さな工房で人形やオブジェを制作しながら人生を送ることを夢みていた。しかし仕事に追われ、次第にそんなことが実現できるとは思えなくなっていた。

作りたい作品、やってみたい企画、世の中に存在したら面白いものなどをノートに書き溜めていたが、時間が実現の可能性を蝕んでいくように思えてきていた。誰にでもあることだが、私は自分の将来について悲観的になっていたのだ。小説を書きたいと思ったきっかけは、文章でなら考えてきたことを残せるのでは、と思ったからだ。30代半ばに出版した「マサカヤ亭奇譚」は、そんな風にして書き始めた。

最初に思いついたのは、ますむらひろしの漫画「アタゴールの森」のようなユートピア小説である。人々の集うレストランがある。このレストランの名物は、木や石から作られた料理とネコとサルの間に生まれた不思議な生物だった。レストランのモデルは、もちろん近所のスナック「リオ」。練馬区上井草の外れにある小さな店で、工員や出稼ぎ労働者、フリーターなどが主な客であり、愛想のない女主人が経営していたが、この店の活気のなさが気に入っていた。

木や石から料理を作るという発想は、「木はセルロースという繊維から出来ているが、これを食べられるようにする物質があれば授業机でも食べられる。」と、高校時代の化学の先生が話してくれたからだ。店があるのはアジアの小さな島国の首都「ハレルウ」。山に囲まれ海に面した町。中央に川が流れている。この地形は、私の生まれた静岡市を意識している。

主人公は画家を目指す少年なので、モチーフとして建築、絵画、音楽、装置など様々な芸術作品を登場させている。レストラン、洋品店のメニューにはシュールレアリズムへのオマージュがある。例として美術史に出てくる芸術作品を多用したのはユイスマンスのデカダン小説「さかしま」の影響かもしれない(笑)。これらのモチーフは、私の実現したかったものであったり、失われたものへの憧憬であったりして小説の特徴となっている。構成はレストランを中心とした第1部、物語が展開する第2部、後日談の第3部からできている。第3部は物語に完結性を与えるために何年か経って追加したものだ。

最初は登場する変人奇人、珍品について書けば面白い話ができると思っていた。しかし書き続けてゆくうちに、小説には感情や心理描写も必要で、大きなうねりを持ったドラマがないと話が進まないことに気づき始めた。エピソードやモチーフを文章化しただけでは物足りないのだ。当然である。この私の小説に対する楽天さについて話すと、ほとんどの人が呆れた顔をする。だから時々わざとこの話しを持ち出すことにしている。小説は、当初考えたものとはずいぶん違ったスタイルに変化していった。出来上がった原稿は、詩人、デザイナーなどに見てもらった。出版できたのはそれなりに好感を持ってくれたからだ。

小説を書いてみて感じたことがある。小説表現がすぐれている点は人間を語れることである。そして人間を語ることで社会や文明についても語ることができるのだ。一方、モチーフである芸術作品の文章化は、当初考えていたより難しく思えた。それは文章がいろんな視点から芸術作品を記述できるからだ。例えばゴッホの絵は、科学がもたらした印象派技法の絵画といえるし、チューブ入り絵具の発明による野外写生画、遠近法から開放された絵画と書くこともできる。またそんなことは気にせず、感性の趣くままに描いた絵、温かい絵、激しい絵といっても違和感はない。これらすべてを記述してもかまわないだろう。

だが芸術作品が小説に登場する場合は、物語を進めるための何らかの役割を持っている。登場人物と同じなのである。私はそれを主人公に近い視点から記述する必要があった。またこの小説は、書きたいことを次々と書いていったので、しばらくの間、終わりが見えなかった。完成後だったが、あるTVディレクターがプロットを作ることを勧めてくれた。プロットは構成や計画であり小説のデザインにあたる。

良い事を教えてもらったと思い、その後は何本ものプロットを書いてみた。しかし意外にもプロットがあれば物語が出来るというものではなかった。小説を書くにはドローイングのような感覚的行為が必要だったのである。ノリといっても良い。記述にノリがないと小説は冷めた料理のようになってしまう。どうやってノリを生み出すかはなかなか難しいが、デザインとドローイングは理性と感覚の関係にあり、芸術作品を生み出すためには両方とも欠かせない。

さて小説を書いて自分の考えていたことは実現できたのかということになる。私の書いた小説は、絵に例えれば12色の色鉛筆で描いた絵のように素朴なものだが、「世界観は表現できた。」と言っておきたい。またこの本は金箔張りの表紙やグリーンの紙を使用するなど、オブジェとしての本を作りたいという私の願いをかなえてくれた。若気のいたりで、あとがきに謝辞がないが、出版に導いてくれた松田行正に25年経った今、新ためてお礼をいいたい「ありがとう。」と。(札幌市立大学付属図書館ニュースレター「のほほん」 2011/2月)