これは2000年に「日刊デジタルクリエイターズ」に掲載したコラムです。タイトルは「いつまで続くかわからないが・・50才を過ぎてからのゲーム」。
B級暮らしはこんな風にして始まりました。
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ゲームをやり始めたのは、3年前。不思議なことに年をとると、これが欲しい、あれが欲しい、という欲望がなくなって、人がやっているのを見ているだけで満足するような老人力がついてしまう。しかも、5年前に札幌に来てからは、暮れや正月のにぎわいもなくなり、定山渓に沈む夕日をを眺めながら、時が過ぎてゆくのを待っているのが快感なりつつある。
新しいMacを買うと、カンフル剤になり、朝の4時からマウスを握っていたりするが、慣れてしまうと続かない。そこで私は、サンタが子供にプレゼントをくれるように、毎年クリスマスには、なにか体験した事のないおもちゃのようなものを自分に買ってやることに決めた。
1年めは、"グルーブボックス"という DJが使うような楽器(?)を買い、ちょっと遊んでみたが、音楽用語で苦しんでしまった。2年めは、プレイステーションを買った。これにはマルだった。以下が3年間でやったゲームである。
「鉄拳」
「クールボーダー」
「ファイナルファンタジー7」
「パラサイト・イヴ」
「ファイナルファンタジー8」
「オブシディアン」(Mac)
「リヴン」
「クーロンズ・ゲート」
「ミスト」
最初は「鉄拳」。もともとゲームはそれほど好きではなかったが、大学を出たての頃、人形作家になりたくて辻村ジュサブローさんのアトリエにいたくらいで、格闘ゲームの硬質なキャラクターが気に入ったのだ。彫刻家ベルリーニの作品を"大理石で出来た肉"と呼んだりして、汗をかかない肉体のようなものに憧れて人形を作っていた事もある。とにかく初めてのゲームだったが、素晴らしいボディの美人格闘家が、超人的な技を披露するわけだからたまらない。こんなキャラクターは人間にはまねできない。
よくバーチャルキャラクターを、人間ではないからつまらない、不自然だ、とおっしゃる方がいる。私もTVの世界に長くいたが、歌手や俳優も所詮作られたキャラクターであることを知らない視聴者は多い。誰かが台本をかき、振り付や演出が行われる。衣装やメークが飾り付ける。そして最後にカメラマンによって切り取られた俳優のイメージがお茶の間に届くのである。
面白い事に、演技の世界では自我のない人間ほど、いろんな芸を身に付けられる逸材だといわれている。それならCGキャラクターほど素晴らしい逸材はいないという事になる。最も極めつけは格闘の技で、武道家の動きをモーションキャプチャによって100%トレースして、さらにダイナミックに編集している。ここに役者の努力はいらない。
不自然だ、とキャラクターに違和感を感じるのは、おそらくリアルだからだ。プロポーションが極端にデフォルメされていたいる場合には、そんな風に感じないはず。人形劇の世界では、スプーンやフォークのようなテーブルウェアに人格を与えてストーリーを演じることが当然の事として行われている。ゲームのキャラクターの、ややオーバーなリアルさに感動するか、違和感を感じるかは人によっても違うが、わたしはマルである。
もちろんゲームの制作側は、この違和感を持ったキャラクターのことは、よく御存じで「ファイナルファンタジー8」のエンドタイトルには、ものすごく日常的(?)で印象的な、出演者のパーティシーンを載せている。ここではさらに日常性を見せるために、ハンディカメラのモーションまでキャプチャーまでしているのである。(*1)
暗黒舞踏とともに過ごした20代には、舞踏を観るというのは、"見知らぬ世界から連れて来られた不思議な生物を前にして、その一挙一動にみとれる"ような状態であって欲しい思っていた。究極の肉体鍛練から生まれた舞踏家とゲームのキャラクターには、非日常世界の不思議な生物という共通点がある、というのは言い過ぎだろうか。
ゲームに惹かれたもう一つの原因は、その毒々しいセットデザインに興味があったからだ。これらのデザインは、どこか日本的であるとはいえ、国籍不明でキッチュな違和感が刺激的だ。しかも、どこかにルーツがあって、それを見つける楽しみもある。
「ファイナルファンタジー7」の"神羅ビル"(*2)のイメージが、映画「ブレードランナー」や、「メトロポリス」から来ていると感じたのは、私だけではないだろう。つまりサーカスや見せ物小屋のようなものを求める江戸川乱歩やフェディリコ・フェリーニ的願望は、まさにゲームという形になって継承されているのだ。そういえば、「フリーク・ショウ」という、昔サーカスにいたフリークの写真を集めたMac版CD-ROMもある(凄い)。
このところ私の興味は、複雑なものから遠離っている。大袈裟な言い方をすれば、アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」の主人公が、木星に向かう旅の中でいろんな音楽を聴いた末、バッハしか聴かなくなったように、シンプルなものに惹かれている(もっとも音楽はベンチャーズや、クラフトワークだが)。
制作している作品も、すっきりとしてしまった。質感が無くなり、光沢や、写り込みも無くなって、陰影だけが残っている。だが時々こうしてゲームの世界に足を運んで猥雑な世界にふれる事は、ちょっとした楽しみである。私はポップスを聞いて育ったので、我々が年をとったら養老院(*3)ではビートルズがかかっているはずだ! と言って来たたが、そんな老人達のためのゲームを開発して欲しいものだ。
正直いって「鉄拳」は、あまりやらなかった。コントローラで格闘することに興味を持てなかったからだ。ゲーマーじゃない、と言われるかもしれないが、格闘というジャンルならボディスーツのような入力デバイスが欲しかった。ある日、ゲームセンターで高校教師と学生が戦うようなゲームを観てからは、全くやらなくなった。
*1:ゲームをプレイした当時はそう感じていた。今ではカメラはキャプチャしていないと思っている。2012年
*2:"ミッドガル"と言った方がふさわしい。2012年
*3:今は死語になっている。老人ホームのこと。あるいは老人福祉施設? このへんの用語の変遷は現代社会をよく現している。2012年
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