ある日、ライブラリーを散策していると、おもしろい本を発見した。幻想建築の画家(カタストロフィーの画家、崩壊の画家とも呼ばれている)「モンス・デジデリオ画集」である。表紙の印刷には、金インクをふんだんに使い、画布に塗られた絵の具のひび割れをあしらい、扉の前には透かしのある紙を使って、タイトル名が朧げに見える凝った造本がされている。この出版物にかける意気込みが伝わってくる。開いてみると、初めてみるデジデリオのカラー図版である。すぐに借りて研究室に持ち帰った。
モンス・デジデリオの絵に初めて出会ったのは30年前、学生時代である。澁澤龍彦の著「幻想の画廊から」美術出版社(何とシルクスクリーン印刷の表紙)に、マックス・エルンスト等とともに偏愛的画家として紹介されていたものだ。本には、スワンベルグやゾンネンシュターンを含む日本で初紹介となる画家達がいて、モンス・デジデリオもその1人だった。図版はモノクロだったが、初めて見た画風の不思議な印象は、今でも鮮明だ。以下は澁澤の紹介文の一部である。
「廃虚とか、人の住まなくなった町とか、荒れ果てた城とかというものは、不思議に私達の心をゆさぶる悲哀感、ノスタルジア、あるいはまた、激しい不安感をひき起こすもののようだ。幽霊が人間の廃虚だとすれば、こうした廃虚は、いわば建物の幽霊ともいうべきものだろう・・・(中略)この不安の表現にたくみな画家は、夕暮れをあらわす薄墨色の暗い地の上に、しばしば金茶色と黄色と白で、まるで劇場の舞台装置のように複雑な、レース飾りのように繊細な、宝石のようにきらびやかな、誕生日のお菓子のように幾層にも積み重なった、豪奢で壮麗な建物を描き出す。(以下省略)」
余談だが、思い込みというのは滑稽なもので、私は、モンス・デジデリオの事を、正体不明の凄い作家なので「モンスター(怪物)デジデリオ」の意味でそう呼ばれる事になったのだと、30年間思い込んでいた。ところが今回この本を読むと、モンスとは、フランス語のムッシュのナポリ訛りで「・・さん」の意味だと書かれている。驚いて、ふたたび家にある「幻想の画廊から」と、「迷宮としての世界」グスタフ・ルネ・ホッケ著/種村季弘・矢川澄子訳を読み返してみると、すでにそのように記述されているではないか(笑)。
モンス・デジデリオのおもしろさは、絵だけではない。素性が謎なのである。16世紀後半から17世紀前半にかけて、モンス・デジデリオの名のもとに制作された絵が存在する事がわかったのは、20世紀になってからの事だ。現在知られているのは、ディディエ(イタリア語でデジデリオ)・バッラ、フランシス・ド・ノームの2人の画家が、ナポリの同じ工房でモンス・デジデリオ名で制作した可能性が高い事、しかもその特徴を描いているのはフランシス・ド・ノームという事である。
ライブラリーで出会ったカラー版の「モンス・デジデリオ画集」リブロポート出版は、谷川渥の解説となっている。30年の歳月は、モノクロをカラーに変え、解説者を変え、出版社を変えたのである。
内容の点でも変化はある。「モンス・デジデリオの絵には、いかなる意味においても始源への志向性はない。もとよりノスタルジーも、またいかなるロマン派的感情の喚起もない。廃墟画の時間性が過去完了的であるとすれば、モンス・デジデリオの時間性はあくまでも現在的である。建物は、何の脈絡もなしに、ただそこにある。ただそこにあって崩壊を蒙っている。」との谷川の見方は、澁澤の見方とは違っている。皆さんはどちらがお好きだろうか?
さて21世紀ともなると、こんな画家が出てくる可能性はあるのだろうか。インターネットやDVDの時代に、素性のわからない画家が存在できるのだろうか。またそれはどんな価値をもつのだろう。そんな事を感じさせてくれる1冊の本でもある。(敬称略)
(札幌市立高等専門学校「ライブラリーちょっとした話」)
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