B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。

2015/02/14

ポンキッキ時代 - その2 幼児教育番組に関わった人たち

1970~80年代は団塊世代の子供が育っていった時代にあたる。
TVを使った 幼児教育と産業が確立された時代でもあった。


■ヒダオサムさん
私を幼児教育番組「ひらけ!ポンキッキ」に引っ張りこんだのはヒダオサムさん。その仕事ぶりには圧倒された。

実は私は、彼の代わりに「おかあさんといっしょ」の人形劇を依頼されたことがある。しかし始めた途端、週に3種類もの人形劇を作っていたら他に何もできなくなってしまうと思い、1か月後に辞退させてもらった。

この仕事では、朝から1人でNHKのスタジオに入り、人形劇のセットを作り、午後、収録が終わると食堂で次の台本の打ち合わせに入る。それがすむとタクシーで渋谷東急ハンズや原宿に材料を買いに行き、次の日に制作。そしてまた翌日に収録というスケジュールをこなしていかざるを得なかったのだ。

しかし当時のヒダさんの仕事ぶりは、この比ではなかった。幼児教育番組だけでも「できるかな」や「おかあさんといっしょ」、「ピンポンパン」にかかわっていたが、さらに雑誌や単行本まで執筆していたのだ。

こうしてヒダさんは、「できるかな」終了後、幼児教育番組「つくってあそぼ」立ち上げの中心的存在になる。そして番組のキャラクターデザインと造形指導を担当することに。

ヒダさんには仕事だけでなく、いろんなところでお世話になった。ヒダさんの劇団「ヒダマリオネット」については別の機会に記述したい。

■ノッポさん(高見映)
ノッポさんこと高見さんは、「ひらけ!ポンキッキ」の台本を書いていたので毎月打合せがあった。プライベートなことかもしれないが、高見さんの家は、ぜひ伝えておきたい建物。10年くらい前、歌「グラスホッパー物語」がヒットした際、特集番組でも紹介された(ような気が・・)。

家は池袋の下町にある薬屋さん。店は奥さんがやっている。とはいっても今のドラッグストアとは大違い。こんな昭和昭和した店は当時ですら見かけなかった。

2階への階段がまたすごい。まるで忍者屋敷だ。急で狭くて人がすれ違えないのはもちろん、ところどころに荷物が置かれている。しかも途中には小さなコンロと流しがあり、階段はここで90度に折れ曲がっているのだ。こうしてやっとのことでノッポさんの応接間へ。

六畳ぐらいの部屋にはTVとコタツがあった。ノッポさんの家はこの部屋しか知らないが、ここまで来るだけで十分招かれた気分が味わえた。打ち合わせのあとは奥さんが作ってくれた巨大牛肉入のカレーだった。

フジテレビでノッポさんとお会いした頃、正直いって私は幼児教育番組に特別興味があったわけじゃなかった。だからノッポさんも知らなかったし、スタジオで初めてガチャピンを見た時は、なんてキモチワルイ人形だと思ってしまった(ごめんなさい)。

しかしスタジオの皆さんと親しくなるのは、あっという間だった。わけも分からず始めた仕事だったが、いつのまにか番組に必要な人間になれていたんだと思う。だから自分の力を引き出してくれた皆さんにはすごく感謝している。
それまでは、自分に、制作のスケジュール組んたり、スタッフを使ってセットを作り、役者さんたちに気持よく演技してもらうサービス精神があるとは思ってもみなかった。

■松田さん・雨宮さん
ガチャピンとムック、通称GMと呼ばれていた。GMの声優が雨宮さんと松田さん。アクターは代わったが、2人はずっと変わらない。実はお2人とも舞台の役者さん。舞台ではまたひと味ちがう姿がみられる。すごい!
写真はずっと前、札幌日産のショールームで。真ん中が私。
「札幌に行く」とムックからメールがあった。私が教員になっても忘れられないでいてくれた。

小さなショーだったが、ショーを見ると「箱根彫刻の森」や「中野サンプラザ」で自分たちが作った大きなショーを思い出した。よくエンディングに使っていた”のこいのこさん”の「いっぽんでもニンジン」が好きだった。CMソングのヒットメーカーだったけど、どうしているだろう。

■レギュラーの役者さん達
いろんな役者さんたちと仕事をした。上の世代の方々では、ノッポさんと仲良しの”はせさんじさん”。共演していた”パンチョさん”は、役者より自分のクラブに熱心だった。クラブのドアの絵を頼まれて描いたこともある。たしか20何店目かといっていた。
同世代としては振付をしていた「劇団鳥獣戯画」の知念さん。一番明るかった。「東京乾電池」は超真面目。みんな長く仕事を続けている。

■幼児教育番組の裏方さんたち
工作番組というのはアイデア考案と工作制作からできている。「できるかな」では、ヒダさんの集めたは芸大の学生たちが工作制作をしていた。出崎さん、鈴木さん、竹内さん、朝山さんたちの強力なメンバーが結集していたあたりが黄金時代かも知れない。その後の世代が石崎さん、柳さん、今は2人とも大学教授。
(*このブログは、ノッポさんが自分で工作を考えている、と信じている人はいないと想定して書いています。ノッポさんは役者です。)

■おもしろ工房
「おもしろ工房」は、ノッポさんの書く台本用の美術工房としてスタートしたが、工作専門ではなかった。工作だけを担当したのはTBSの番組「ディズニークラブ」の半年間ぐらい。
米国には工作をTVエンターテイメントとして作る仕事はなく、「これは何という職業なのか」とプロデューサーが驚いていたが、答えようがなかった。こんな仕事をしていたのは日本に数人しかいないのだ。
久しぶりに「大駱駝鑑」麿赤児さんが公演のポスター依頼に来た時、私の仕事をみて「幼児教育界に咲いたあだ花だね」といったのが忘れられない。

工房の仕事の中心は工作からデザインにシフトしていたと思う。今から考えると、よくあんなにいろんな才能が出入りしていていたものだとも思う。彼らについては書く内容が多すぎて別のタイトルが必要だ。
当時、彼らはほとんど学生でだったが、今は立派になって活躍していている。だから口にするのはいいとしても、文章にして記述するのは気をつかう。中には漫画家として億万長者になった方もいる。もっともレアな話題のある時代なんだけど、いずれ。

札幌に来てから、自分の子供たちに「どうしておもしろ工房をやめたの?」とよく聞かれた。いろんな原因があるが「少子化による幼児教育産業の衰退」かなぁ~、と答えてきた。

今もう一つ答えられるとすれば、スタッフを、そして工房の制作力を維持していくのは簡単じゃないということ。仕事の中でデザインワークだけは自分にしかできないという自負があったが、仕事が多角化していくにしたがい、デザインワーク以外にも多くの時間をとられるようになっていた。さらに熱い依頼主も減ってしまった。仕事をコンパクトにしたかった。そしてMacに出会う。

ポンキッキ時代 - その1
ポンキッキ時代-その2とのあいだに余談