B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。

2014/09/05

「鑑定士と顔のない依頼人」ジュゼッペ・トルナトーレ

監督は、「ニュー・シネマ・パラダイス」の名匠ジュゼッペ・トルナトーレ。主演はジェフリー・ラッシュ。

■物語:
独身で年老いたオークショニア、ヴァージル・オールドマンは、業界の誰もが認める一流の美術鑑定師である。しかし一方で彼は、美しい女性肖像画を、贋作として安く手に入れる欺瞞行為を繰り返してきた。彼の隠し部屋には多くの美人画が飾られていた。
相棒は、かつてヴァージルに才能を認めてもらえず画家を断念したビリー、修復師の青年ロバートである。

こんなヴァージルに突然遺産の鑑定依頼がくる。しかしこの依頼人の女性クレアは姿を見せない。自分の思い通りに仕事ができない鑑定士のプライドは傷つく。実はクレアは正常ではなかった。人にあうことを恐れ、屋敷から外に出たことがなく、誰もその姿を見たものはいなかったのだ。

しかしヴァージルは、この遺産の中に見たこともない珍品を発見する。それは実在するかどうかも不明な伝説の自動人形の部品だった。

こうしてヴァージルは、クレアにふりまわされることになる。
彼は、依頼人の姿を確かめたくなる。そしてそれまで女性に対して抱いたことのない感情をクレアにもちはじめる。やがてそれはクレアに対する愛になっていった。

ヴァージルはクレアの愛も感じるようになる。しかしこれまで女性を拒絶してきた鑑定師にとって、愛の証拠を見つけるというのは難しいことだった。恋愛に虚実というものはあるのか? 信頼できるものなのか?

そんなヴァージルに対し周りは答える。
ロバート: もし愛の虚実を確定できれば、恋愛は競売にかける事ができる。
秘書 : 女との暮らしというものは、競売でいえば、THE BEST OFFER (映画の英名=最高の落札)と同じです。
ビリー: 愛にはどんな虚実もある。
クレア: あなたは私に興味があるのか? それとも私の遺産に興味があるのか?

自動人形が修復されてゆくにしたがい、ヴァージルは、自分のようだと嫌悪感を感じる。
ヴァージルは、クレアと暮らす人生へと舵を切る。

こうしてヴァージルにとってすべてが自分の思い通りに進んでようにみえた瞬間だった。最後の仕事を終え家に戻ると、クレアは消えていた。隠し部屋にあった多数の美人画コレクションとともに。

ヴァージルは騙されたのだ。部屋には自動人形が置かれ、「贋作の中にも真実はある」というヴァージルの言葉を繰り返していた。


■物語:ここからが問題
物語は終わっているのに、映画は終わらない。ヴァージルは、精神病院でリハビリ。

ヴァージルに事実を語るのは、クレアの住んでいた屋敷の正面にあるカフェに置かれた自動人形。
人形は見たことを正確にカウントしていた。クレアが屋敷を出た回数は200回をこえていた。
(私はキルナ・スタメルは小人役ではなく人形役だと思う)

クレアの生活はすべて偽りだった。ロバートは仲間だった。
そして罠を仕掛けたのは、たぶんビリー。

そしてヴァージルは、ビリーが描いたクレアの肖像画を手にプラハへ。
そこには以前クレアから聞いた店があるかも知れないと思ったのだ。クレアが一度だけ愛した男と会ったという不思議なカフェだ。

カフェは実在した。「贋作の中にも真実はある」である。彼は彼女を待ちづづける。あてはないが・・。映画はここまで。

続きを見れば見るほど主人公が哀れに思えてくる。なにもここまで老人を痛めつけなくてもいいのではないか? ジェフリー・ラッシュ演じるヴァージルは袋叩きにしたくなるような男ではない。
トルナトーレ監督は、なぜこの映画をつくったのか? 鑑定士のような人間に、よっぽど嫌な思いをさせられたのか?
観客は、報われない愛の結末に嫌な気分で映画を見終わる・・。

■事件の背後にあるもの
この作品は落札価格を扱いながら”カネ儲け”を軸に物語が展開していない。

ヴァージルが美人画を収集する理由はお金ではない。
天才たちが実名を残さず描いた贋作。この特殊な絵の中には、ヴァージルにしか鑑定できない女性の美しさがある。これがヴァージルに安堵感を与えている。

収集は本物の女性を知る怖さからきたものだが、クレアの人間拒絶症に通じるものがある。

”カネ儲け”という価値観がないのは、ヴァージルだけではない。ビリー、ロバート、クレアもだ。お金が必要だと思わせるシーンは一度も出てこない。これだけ手の込んだ罠なのに、何のために罠を仕掛け、儲けた金をどう使いたいのかもわからない。

ビリーは、かつて鑑定師ヴァージルの審美眼によって画家になる夢を摘み取られてしまった。そしてオークションの入札額を操作する相棒役をさせられていることへの仕返しをしたかった。

彼は、鑑定師を出し抜く計画を立てる。そしてクレア、自動人形という餌を使ってヴァージルを騙し、これまでのコレクションも、クレアも奪い去り、皮肉としてヴァージルが認めない自分の描いた絵(クレアの肖像画)を送りつけたのだ。積年の恨みは晴らされた・・、という話なのか?

しかしこれでは映画はビリーの物語になってしまう。監督は観客とともにビリーの勝利を祝いたかったわけではないと思う。
つまり、この作品は、”贋作鑑定士の盲点をついた詐欺”のような一般的なミステリーではなく、どこまでもトルナトーレ監督の興味をもった孤独で純粋な鑑定師の物語なのだ。

監督が観客と共有したかったのは、THE BEST OFFER (映画の英名=最高の落札)。美術品なら鑑定によって相応な落札額をつけ、手に入れることができても、愛はヴァージルのように、自動人形のような正確な鑑定士をもってしても落札はむずかしい、ということだろう。

たとえ鼻持ちならない鑑定士であっても、クレアにふりまわされるヴァージルの姿は純粋で、むしろ好感が持てる。長年にわたって築き上げた美術鑑定師をやめ、それまでの人生から新たな世界へ飛び出そうとする活き活きとした姿が共感をよぶ。

■クレアの愛の虚実
罠が成功する為にはクレアは徹底した悪人でなくてはならない。
それを伝える方法として、最後の方でクレアが愛の言葉を語るシーンが挿入されている。
しかしこの画面から虚実は分からなかった。

愛が存在した、というなら救いがある続きが欲しい。
愛は存在しなかった、というならゾッとするようなオシャレなエンディングが欲しい。
どちらもなかった。

映画は、ヴァージルは純粋だが哀れな鑑定師という印象で終わっている。

■トルナトーレ監督が考えたこと
物語の中心はあくまでも鑑定士ヴァージルだ。
ヴァージルは、クレアの愛を感じたが”偽り”だった。しかし偽りの中に”プラハのカフェ”という”真実”を見つけた。これからヴァージルは、この真実と暮らしてゆくことになる。観客から見れば、報われない方法であっても、それがヴァージル流の純粋な鑑定士の生き方なのだ、というのがトルナトーレの考え方ではないだろうか。ちょっと強引だろうか?

映画は魅力的だった。しかし、ヴァージルが罠にはまって以降の展開には混乱した。正直言って難解というより曖昧な作品に思えた。英語と字幕を理解できていないのかもしれないが、もう少し意味のわかりやすい表現にしてくれても作品の価値は下がらないと思う。

それにしてもトルナトーレ監督は、「ニュー・シネマ・パラダイス」といい、失ってしまったものへの執着が強い。そしてしつこい。