B-STYLE

[身近なモノの取合せで暮らしを満喫する]  [時の経つのを楽しむ] [偶然を味方にする] それらをBスタイルと呼ぶことにしました。

2015/01/27

ポンキッキ時代 - その1

■きっかけ
20代の半ば、杉並に住んでいた頃、毎週土曜の夜は近所の画家、村田夫妻のアパートで飲み会だった。メンバーは近くに越してきた芸大の1年先輩、ヒダさんと私。ヒダさんはNHKやフジTVの幼児教育版組で活躍していた。

そんなある夜、ヒダさんから、「朝までに段ボールの車を4つ作らなくてはならないけど、手伝ってもらえないか?」と頼まれたのが私のポンキッキの始まりだった。

午前1時に飲み会を終え、彼のアトリエにいって机ほどの大きさの一輪車、二輪車、三輪車、四輪車の4つの車を制作した。とはいっても私が作れたのは一輪車だけ(工事現場で使う手押車)。残りの3台はすべてヒダさんが作ってしまった。

この時受けたカルチャーショックは忘れられない。
段ボールとガムテープだけで、あっと言う間にそれぞれの特徴をもったデザインの車を作りあげてしまうヒダさん。それにくらべ常識的でリアルな車しか思いつかなかった私。眼から鱗が落ちる思いだった。

朝の5時、私はアパートに戻って寝たが、ヒダさんは別の仕事を始めていた。
 
■おもしろマシーン
当初、ポンキッキは、レギュラーではなかった。NHK「できるかな」の工作のお兄さん、ノッポさんこと高見映さんが、ポンキッキの台本を書いていたが、台本に出てくる仕掛け付きの美術が、フジテレビでは出来ないというので、これだけを制作していた。
しかし番組では、この装置がおもしろいというので、この装置だけのコーナーを作るなどし始めた。

こうして仕事が増えてきたので、ヒダさんと私は「おもしろ工房」を作り、アルバイトを雇って「おもしろマシーン」シリーズを制作していった。

「おもしろマシーン」にはいろいろなものがある。「ポンキッキ」のキャラクター”ガチャピン”、”ムック”や他の出演者が使う装置と、装置だけを見せるコーナーの2種類があったが、すべて言葉、数、色、形などを教育する機能を持っていた。

この装置は、後の時代にNHKに登場する「ピタゴラスイッチ」とも共通点はあるが、「おもしろマシーン」は、子供にも作れそうな工作であり、素材が幼児のまわりにある生活用品だけであること。ノッポさんがタップダンサー出身でエンタテインメント風の脚本に味付されているという点に違いがある。

最初はドミノ倒しのように全自動だったため、番組のきびしい条件内でマシンを制作するのは難しかったが、ネタがなくなって手動装置にしてからは、デザインに凝れるようになって、ちょっとしたマッド・サイエンティスト気分が味わえた。

■幼児教育番組
当時は、全テレビ局が幼児教育番組を持っていた。
ポンキッキには、、ピンポンパンというライバルがいたが、「およげ!たいやきくん」の大ヒットの後で自信を持っていた。とはいってもこれらの番組のブレーンはどこかでつながっていた。

私をこの世界に引き込んだヒダさんが所属していた”仕事場エンタープライズ”は、「できるかな」、「おかあさんといっしょ」、「ピンポンパン」と、有力番組の台本とアイデアを作っていた。

また幼児番組のスタッフは、過去の人形劇番組の関係者でもあった。
”仕事場エンタープライズ”代表は、劇作家の井上ひさしと一緒に「ひょっこりひょうたん島」の台本を書いていた山本護久さんだった。
ポンキッキをたちあげたメンバーで、石森章太郎の原画(私はそう聞いているが真実かどうかは不明)から、ガチャピンやムックのデザインをおこした光子館も、多数の番組の美術をしていた。

ポンキッキが独特だったのは、トッププロデューサーは、SF作家で、日本SF界の総帥といわれ、「スターウォーズ」を翻訳した野田昌弘だったこと。
番組は、野田さんがフジTVのディレクターだった頃、「泉ピン子さんをお姉さんにしたらどうだ。」などのとんでもないアイデアからスタートしたといわれている。
野田さんはいつも怒鳴り散らしている強者だった。しかしこんなにスタッフから厚い信望のあったリーダーにはお会いしたことがない。愛車フェアレディzで新宿駅まで送ってもらい、米国にブラッドベリを訪ねた時の話を聞かせてもらったこともある。

テレビを見ていると同じように見える番組も、私がかかわった18年の間に制作体制は随分変わった。お姉さんも6人代わり、ガチャピン・ムックの役者さんも代わった。

私は外部のデザイナーとして関わっていたが、この番組ではセットから小道具、人形劇、歌の映像など、何から何までやらせてもらった。やらなかったのは作曲・作詞ぐらい。番組は少子化にともなって縮小されていった。そしてやがて「ポンキッキーズ」に。
こちらにはほどんど関わっていない。

*札幌高専の学内ホームページに掲載した記事です。
ファイルの日付は1997年4月。時間が経っているので少し校正をしています。

*続きは後日。